bluerose’s diary

基礎疾患視点を中心に日々感じたこと

拡大鏡。

これはスピリチュアルな事柄だというところで読んだり聞いたりした話なんだけど。

ある人が悩んでいたり、苦しんでいたりしたとき、それを聞いた人は相手にどう接するとよいのだろう、と考えたりすることは多いと思う。

一つには相手の気持ちに寄り添って共感して、ただ傾聴していくこと。

これは昔相手によかれと思っていろんなアドバイスをするのがいいと思っていた時にそんなアドバイスは聞きたくない、ただ自分の気持ちを表現したい、という人が出てきて、それで最近傾聴、共感、そういう接し方もまた良い、むしろこちらの方がよい、と思う人がたくさん出てきているような気がする。

調べたわけじゃないからあくまでも自分の印象なんだけど。

 

 

 

 

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ミルトン・エリクソンという精神科医のことを私はリンク先のブログで初めて知って、本を手に入れて読みだしたのだが、どうも自分に引っかかって読めない。なので放置中である。

しかし、誰かが本について解説や要約をしてくれることにより、ある程度中身を知ることができるというのはとてもありがたいことだ。

 

話がそれたが、リンク先では乾癬に悩む女性の話が解説されている。

ミルトン・エリクソンは独自のものの見方があって、ほかの人が真似するとたちまち相手との間が悪化したりこじれそうな危うさを秘めているように思うが、傾聴ではなく、自分がどのように見えるか相手に知らせる、という方法は相手に自分の状況を客観的な視点から考えることを思い出させるため、大切なことかもしれないなあと考えた。

 

自分はやっぱりこの女性のように指摘されたらすごく腹を立てるだろうし、果たして相手に感謝できるくらいまで気づきがあるか自信がない。

それでも、傾聴、共感は別の視点からすると、相手の承認欲求を満足させることにつながって、それが相手の気持ちを手放せる方向に向かえばいいけど、相手が少し苦しくてこじらせていた場合、その苦しみが相手の共感を得られるとなると、どこかでその苦しみを手放さなくなるかもしれないなあ、なんて考えた。

そこの塩梅は自分で考えてもしょうがないので、相手を見ながら自分の気持ちの動く方に接するとよいと思うのだけど、相手の気持ちばかり考えて自分の気持ちのことを忘れてしまうと、あまり良い方向にむかわないような気がするなあ、とこれもまた個人の感想だが、そう思った。

 

結局、どんなものにも聞くような万能薬は存在しなくて、しいて言えば、やっぱり自分の気持ちに正直であること、これが根底になければ、一時的には良くても、どんなテクニックも仇になって帰ってきそうな気がする。

今朝の夢~トイレに入ってこれからのことを考えた

今朝の夢はトイレに入って座って用を足しているのだが、白っぽいドアを見ながら、自分は何をしていたんだろう、ということを考えてる夢だった。

必然、目覚めるとこれから自分はどうしたいのだろう、ということが自然と浮かんでくる。

ネットでフォローしているブログを見る。

medicine-works.hatenablog.com

たとえばもうそういう生き方を変えたい、自分変わりたい、と思いながら変わらないのは、実は自分を守ってきた、と無意識に信じ込んでいるまさに「その考えや思い、ふるまい」を手放すことがこわいからなんですよね。

ざっくりこんな風な文章が飛び込んできて、自分変わらんなあ、とか考えながらも、別のブログを見に行くと

 

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定着してしまった生き方が変わるときというのは、いつも大きな出来事(イベント)が引き金になります。しかし、それは、予期せぬ外部からのつらい出来事や災難であることが多いので、わたしたちは強制的にそれがはぎ取られるまで、定着した生き方につい、しがみついてしまうのです。

などという文章に出会って、どっきりし、

 

さらに

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今の状況変えたい。

でも、なにをやったら、

どういうふうになったら、

ここから人生がよくなるのか、

よくわからない。

どうにかして、今の状況から出たい。つらい。

そういうときってあるものだと思います。

という文章にお目にかかって、

 

新生活、新しい生き方、変化するためには、そんなキーワードでくくれそうな内容の記事が自分のせまいフォローの中に3つもあって、ちょっと考え込んでしまった。

それぞれのブログ記事にそれぞれの答えが書いてあるんだけど、自分はその答えそのものより、この

 

変わりたい、変われよ、みたいな心境にこたえるかのような記事が連続して同じような日に書かれたことに感銘を受けた。

 

変わりたい、変わろう、変われよ~

みたいな心境はほかの人にもずいぶん浮かんできている時期なんだろうなあ

そう考えたくなった。

 

ほかの人はどう感じているんだろう?*1

 

 

*1:皆さんはどうですか?と問いかけのような文章を書く人がいるけど、シャイなのでこの辺りにこそっと入力しておきます…

1年前にこんなことを考えていた。

別のブログで去年の今頃、自分はこんなことを書いていた。

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去年はあまり深く考えずに、戦争早く終わるといいね、とかちょっと他人事だったのだけど、遠くの戦争は徐々に世界中に影響を及ぼし始めていて、みんなにちょっとした不如意感や諦めや不安が浸透しているような今年。

去年の戦争はいまだ終わらず。

まあ、神様という存在から見ると、まだ季節は終わっておらず、できた種はどんどん飛ばされて…そんな感じなのかなあ。

自分もこの1年いろんなことがあった。

他人のことを考えてない文章を書きました。

気が付いたことがあった。

先日、内藤剛志主人公の刑事ドラマで役名が自分の下の名前と同じという政治家が出てきたことがたぶん自分の中のリアルにシンクロした感じを持ったのかもしれないが、そのように、フィクション、虚構の物語がやけに自分のリアルにシンクロした感じを持ったものが過去にあったんだよな、そういえば。
それが、筒井康隆の「俺の血は他人の血」という小説であり、どっぷり筒井小説にはまってずっと読みだしたきっかけになった。筒井さんはすごいことにほかの小説も私の期待を裏切らず、つい数年前までずっとファンであり続けた。この小説の「リアル」とは何か。それは自分の中にもう一人の自分がいて、それが暴力的な人物だという点。このことは10代のころにはリアルというより、まるで自分のことを書いてるような小説でこんな小説があったんだ、と興奮したものだった。
さて、さらに、ここまで書いて、気が付いたことがあった。
自分が相談しているカウンセラーのことである。自分の中の「もう一人の自分」ではなくて「自分の無意識に振舞っている自分」なのではないかと考えるようになった。で、カウンセラーの不愉快な突き放したような冷たいふるまいにずいぶん絶望したものだが、私自身が私自身のことを考えるとき、こういう態度で考えてることが結構あったのではないかと想像するのである。
しょうがないなあ。なにが面白くないんだか。他人として見るとそこが変に愉快でもあるのだが、でも相談しているときにそういう態度になられるともう本当に心が折れそうになる。
それでも、気が付くのかなんなのか、後でフォローしてきたりして、どうもそういうところが自分は弱い。
こういうことを考えると、自分は若いころから外側の世界に自分自身の気が付いてないところを見つける癖があるのかもしれないと思うようになった。
こういう風に思うのは、今日、Astro,comで心理占星術のテキストを申し込んだからだ。コンピューターで構築されたホロスコープ解説だが、結構うまくできてるものだと感心してしまった。
前に、マドモアゼル愛さん監修のコンピューター占いを頼んだことがあって、そのとき、前世の話に及び「もう一息というところで挫折した経験があって悔しい思いをしたことが今回の人生に影響している」みたいなことを書いていた。
ホロスコープでそんなことがわかるのか?愛さんよ、とかやくざみたいな口調で考えてしまったけど、今思えばその挫折の中身までは読めなくても、そういう出来事みたいのがあったというのを私は先日とあるセッションで開示されたので恐るべし、ホロスコープ。そういえば寿命も熟練者なら読むことができるとか聞いた。
というわけで、久しぶりに、自分はユングとか集合無意識とかそういう暗くてディープな魑魅魍魎とも違うけど、そんな世界のことを思い出していたのだった。

興味ある方へ

春先は自分のメンタルが不調に陥りがちな季節である。

過去に2回ほど危ない時期があって、1度目は精神科に入院した。

2回目にまたすごく変調をきたしたのが、1度目から数えて14年後のことで、この時は再入院を覚悟したほどひどいものだった。

そして、今年、どうもその2回に匹敵するような不調の波の兆候が出てきて、危ないような気がするので、警戒態勢を強めて、無理しないようにしている。

 

ところで、2回目の不調のときに不思議な印象の短い夢をいくつか見た。

いずれもファンタジーなものが出てくるんだけど、恐怖感が半端でなくて、目が覚めてから、あの光景であんな恐ろしい体験するのかと、不思議に思ったくらいである。

当時はその夢を記録していなかった。というより、その夢はずっと光景を覚えていたし、記録する必要を全然感じず、忘れるなら忘れてもいいし、とかそんな感じを受けたからである。

その夢を今年書き起こすことにした。

しかし、このブログではなく、別のサイトでエッセイとか小説というものの形式にして。

いきさつと内容はその文章の中にある。

もし、興味がある方がいらしたら、どうぞ。

https://ncode.syosetu.com/n7166ic/

 

身体感覚

これは若いころからずっと思っていたことなんだけれども。

身の回りのものの大きさが自分の体の大きさと調和していない感じがしていて、

主に、なんとなく手で扱ったりするものに多く感じられる。

とにかく物が大きく感じられる。

テニスのラケットなんか重くて降るの大変だし、バドミントンすらそういう傾向がある。卓球はラケットが小さいのでそういうことは感じなかったが、高校時代、卓球台でなく、小さな机を二つに分けて卓球したとき自分は平生の弱さとは打って変わってみんなに勝てたので、やっぱりものが大きいのかなあと感じた。

高校の顧問はそのときわたしがペンタイプを使っていたので部活の時に使っているグリップタイプでなくペンにしたほうがよかったか、と言っていたけど、たぶん卓球台のあの大きさに戻れば変わらないようにも思う。

あと、掃除機がやたらでかく感じてイライラするとか、雑巾が絞りにくいくらい大きいとか、農作業で立ち回りがうまくいかないとか、日常生活で家事仕事*1でものが大きくて振り回されてるという感覚がよくあった。

確かに自分は体が大きくないのでそのせいかとも思ったのだが、でも母とはそれほど変わらないのに母はすいすいとものごとをこなすので、となるとあとは身体と意識の関係でうまくいかない、ということなのかもしれない。

 

これも発達特性と関係あるんだろうか?

*1:しかし、料理については包丁がでかいとか鍋がでかいとかそういうことをあまり感じない。いくら大きくてもそれはその料理のための大きさで自分にとって大きいと感じることはあまりない。もっとも大きなフライパンや中華鍋で料理人よろしくゆすったりするのはあまりないせいなのかもしれないけれども。

光と影

野田佳彦元首相の、安倍晋三元首相への追悼演説でこんな一節がある。*1

「…あなたの放った強烈な光も、その先に伸びた影も…(中略)…言葉を尽くして問い続けたい…」

自分は精神疾患で妄想などを伴う言葉やイメージに悩んだから、光の先に伸びた影、という言葉に心が動いた。

いわゆるスピリチュアルと呼ばれてる世界では一般社会では陰謀論とか言われるものを含め少しトリッキーなものの言い方がされてることが多いなあという感じを受けていた。病気の世界では妄想と言われるようなものによく似たものがアチラの世界では素晴らしい存在からのメッセージだったり実は隠された真実だったりと言われると、私のような精神疾患を持ってるものでなくてもかなり心が揺らぐのではないかと思ったりするんだけど、そういう中で実際にそういう言葉やイメージでものを見てみることで自分なりの人生を取り戻したりした人も結構いることを見てきたし自分も少しそういう体験をしたために、ふざけた言い方になってしまうかもしれないが、まさに精神疾患と言われる変性意識は「強烈な光とその先に伸びる影」だなあなんて思ったのである。

 

ルービックキューブというおもちゃがある。

6面が9つのパーツに分かれていて、6面がそれぞれ違う色のシールが貼られている。

9つのパーツの色をバラバラにしたルービックキューブを6面全部同じ色のパーツに揃えて遊ぶ。

遊んでいる中で揃っている1面だけが「強烈な光」で見えるとしよう。

そしてあとの5面は「その先に伸びる影」で見えない。

光の部分は揃っているけど、見えない影の部分は果たして全部揃っているかバラバラなのか通常では見えないために確認が難しい。「真のスピリチュアリティ」と「妄想」はどこかこの「見えない部分もそろっているもの」と「見えない部分はバラバラ」という違いに例えられそうな気がする。

ただ、その「強烈な光」は人間の世界では決して普遍的なものではなく「宗教」「科学」「哲学」…など分野が違うとなぜか想定が変わって見えるという不思議。なのでスピリチュアルな世界に住んでる人たちは一般社会で信任の厚い「科学」や「哲学」との共通点を見つけようと努力してきた感じがする。

そして、得てして誠実なものの言い方をしようと試みるのだがこんな風に自分が最初に指摘した「トリッキー」な言い回しになってしまって、「影」を払いのけることは不可能に近い。

 

「光の先に伸びた影」ということを考えたときに、文学作品なんかも思い出すんだけど、本当にこれを言葉にして問い続けることは大変なことだろうなと感じる。

それでもいつの間にか1面しかそろってないものに心酔してしまう自分もどっかにいるだろうし、人間難しい。

 

*1:北海道新聞2022.12.25