bluerose’s diary

基礎疾患視点を中心に日々感じたこと

ある思い出。

少し前、まだ自分が植物鉢植え、そういうものに夢中になって育てていたころの話なんだけど、あるとき図書館へ行った。カウンターに鉢植えの花がおかれていて、何気なく見ると、土がからからで、花も私の目からみると水不足でしおれているのに近い状態だった。

 

カウンターの職員さんは特に忙しそうにも見えず、二人で雑談をしているようだったので、わたしは職員さんに「お花の水をあげたほうがいいのではないでしょうか」と声をかけて、職員さんが一応返事をしてくれたのだけど、なにげなくチェックしたとき、水をあげてる様子はなかった。

 

わたしが帰ったあとにあげていればいいのだけど、後日、行ったときその鉢植えはなかったので、なんだか気になってしまった。わたしの見るところでは水やりを適切に行っていれば、わたしの行った日時の間隔では枯れていない感じがしたのだけど、と、こんな風に少し気になった。

 

こんな風に、ほかのよくそのことについて知ってる人が見て、あれをやればいいのに、と思うことはきっとあるのだろうと思う。けれども、わたしは図書館の職員ではないからその鉢植えを持って行って水をやるわけにはいかなかったのと同様、、声をかけても、相手がそれを受け入れて相手が実践しないことにはどうしようもないことが結構ある。どうぞお願いします、と言ってくれればわたしはすぐにでも水やりをしただろうけど、それはなかった。

 

 

どこまで他人のことに介入できるか。

これは人によって距離感が異なるため、一概には言えない。

わたしはそう思っても、もしかしたら、たまたま水筒を持っていた誰かは、職員さんに声をかけて、この鉢植えにお水をあげていいですか?と即座に実行できる体勢だったら、もしかしたら職員さんはお願いします、といったかもしれない。

けど、やっぱり距離感のことで、大丈夫です、わかりました、と答えるだけかもしれない。