bluerose’s diary

精神疾患のこと、その他持病についても少し

9とqと「Q」

今は落ち着いているが、精神的な状態が一時ひどくなった時期があって、その時、何の影響なのか、尿が出なくなったことがあった。

それで、お腹はトイレに行きたいのに行っても出なくて苦しみ、とにかくどういうつもりか自分で呼ばなくてはならないのに「救急車がくるまでは…」とか考えていた。

幸い、尿はそのあと真っ赤な状態で出すことができて、なんとかしのいだけれども、あのときは本当にどうしようかと大変なことを思い出していた。

 

九の話である。

九は苦につながるとか言われてあまりいい意味にとってくれない数字。けれども9月9日は陽が重なる「重陽節句」とかいうし、なかなか興味深い。

 

この九であるが、「きゅう」と呼んだ場合、アルファベットの「q(キュー)」に似ているので面白いな、と思った。形と読み方の似た者同士。救急車なら「99車」とか「qq車」とかなんか言葉が勝手に関連用語を拾い出して、たまに自分の頭は乱調気味になる。

 

どこかで堂々巡りになってるとき、それに気がつきかけてるとき、何かが互いに追っかけっこしてるようにぐるぐる回っている夢を見ることがある。トラがぐるぐる回っているうちにバターになるならいいけど、そういう感じでなくて「あ、自分はなんか同じところぐるぐる回ってるな」という感じを受ける夢。

 

ぐるぐる回っているとき、そこから抜け出すには、円環、例えば0(zero)とかO(o)とか、同じ平面で抜け出すならどこかを切らなくてはならない。そんなときふと浮かんだのが大文字の「Q」という文字。

この文字から思い出すのはquestionとかクイズ(Quiz)とかそんな言葉。問いかけること。

けれども、文字というのは幾分絵画的でもあり、もうひとつ思い出すのはOからしっぽを出すこと、すなわち正体がばれたり、ねずみだったりそんな言葉まで連想する。

 

めちゃくちゃな連想の仕方だけど、こういう連想は妄想という名のもとに隠れた「コンステレーション(星座)」なのだと自分で楽しんでいる。

手放すってなに?

セルフヘルプやメンタルに関することのネット上の記事を読むと、「手放す」という言葉がよく出てくる。

組み合わせとしてよく聞くのが

「執着を手放す」

ということかな。

これは執着している自分に気がついたらそれを認めることらしいのだけど、これはともかく。

もっと直接的に怒りとか悲しみとか嫉妬している自分恨みとか、そういう生々しい感情に気がついたとき、私はそれを認めることができないんだよね。

逆に「手放さなくちゃ」と思った時に、それらの感情と切り離すようなことをしてるのではないかと感じていて、これがつらい。

 

たぶん認められないときはまだ苦しい段階で切り離してしまうこともあるのかな、とか考えるのだけど、それもまたなんか自分をごまかしているみたいで居心地が悪い。

 

ほんと、どうしたらよいのかなあとため息の一つもつきたくなる。

 

愚痴。

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木星は騒ぐ

西洋占星術において、木星は拡大の星。その木星が妄想を拡大してくる。

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で、木星は何を考えたかというと

「スピリチュアルでは自分の中に答えがあるという。自分の中といってもそれを感じる方法は瞑想するとかそういうことらしいのだけど、もし、自分の世界はこの生きている地上にも現れている、というのであれば少なくとも私が日頃感じていること感覚として受け取ること、それもまた私の現れなのだろうか?

夢の世界では知らない人物も私の一部だという、ならばこの世で出会った人もまた私の一部なのかもしれない。」

 

「私は過去生を知らずに来た。それを見ることができるという人にあって聞いてはみてもはっきりとしない。そこでこんなことを妄想する。

自分をこの世に誕生させてくれた両親は自分の過去生の何かを反映しているのではないだろうか?」

 

そうして木星は自分のことをひとしきり考えた後に、仏教のブッダキリスト教のイエスのことに想いは飛んで行った。

 

ブッダは王族に生まれた、そしてこの世には栄華を極めていても避けられない苦しみがあることを子供時代に知る。その結果の出家。そこには権力に関係するエゴを浄化するという目的があったかもしれない。結果として人間の意識の構造に目が向けられ、のちに宗教としての教義が意識の改変に関することから始まったのも不思議ではない。

 

エスの出自は「信じられないこと」に満ちている。人間の常識からすると夫の子供ではないという「不信」、賢者や天使が「神の子」として告知していったと言う、文字通り「信じられないこと」。

この二つの信じられないことはイエスに謎の時代を生んだのだろうか?「愛すること」を教義とする宗教へと発展していった。

このイエスの受けたものは例えば「道徳から外れた人間」への差別や暴力、あるいは「常識から外れた生き方」を忌避することなどを意味するのではないだろうか?当事者としてイエスは誰にも知られぬ時代を過ごし、そして戻ってきた。

 

仏教は「見かけの幸福」から真の幸福とは何かを探し、

キリスト教は「理不尽なこの世」に生きるものが生きるための知恵を実践していくこと。…

 

真実と愛。

 

 

変容していく言葉、それは一見戸惑うくらい突飛だ。

悩みは尽きないので、いろんなところに救いを求めてインターネットを見ているのだけど、嫌な人に出会わなくなる、とかいう文言に惹かれてこんな動画を見た。

youtu.be

 

この動画で“四弘誓願文”を唱えることを勧めていて、唱え方を指南してくれている。最後で実際に唱えている音が入っていて、とてもきれいで心地よい声だったので、自分もやってみることにした。

四弘誓願文については

四弘誓願文 | 禅のこみち――萬福寺

こちらのリンク先でどのようなものか簡単に説明してあるのをご覧いただくとして。

 

そうやって、やっていくうちに、

法門(ほうもん)無量(むりょう)誓願(せいがん)学(がく)

と唱える部分が、わたしの頭の中で

“訪問無料誓願学”

と変換されるようになったので、なんか困った…(汗

 

で、この“訪問無料”っていうのが最初こちらに来てくれるのにお金払わなくていいという感じでイメージされていたのが、いつの間にか「疫病神」という感じに変わっていったので、また困った…

まあ、それらが結びついて

お釈迦様の教えは疫病神ですけど学びたいです、

みたいな冒涜的意味に変わるのにそう時間はかからなかった…。

 

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ありがたい言葉やアファーメーションで使う言葉が最初ポジティブでやる気を起こさせるはずなのに、やってるうちになんか変な意味になってネガティブに感じられるようになり、困ることがいっぱいあった。

だから、言霊とかいっても、自分の中のネガティブに勝てないのではないかと思って、アファーメーションとかすごい苦手になっていた。

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ところで、つらいことや悲しいことはこちらが願わなくても勝手にやってくる。

人はつらいことは嫌いだから大抵の人はそれをお願いしない。

すなわちそれらは「無料」でやってきてくれるというわけだ。

お釈迦様のありがたい教えは、大抵この「無料」でやってくることについて、それを変える方法を学びたいと感じたときに、目を向け始めることが多いのではなかろうか?

人は幸せな時にはそういうものには目を向けないもの。

 

だから、もしかすると、こういうことをどこかで感じ取ってあんな言葉に変わっていったのかなあ、なんて思ったら、ちょっとだけ愉快になって笑いたくなった。

 

蜘蛛。それは男の姿に変わった。そして私の中の蛇。

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【ある日の夢】

あたりは暗いので多分夕方から夜なのだろう。わたしは家に向かって道を歩いていた。

横切る道のところに巨大な蜘蛛の巣がかかっている。そしてその巨大さとはちぐはぐな大きさの小さな蜘蛛がわたしの前に現れた。

わたしよりかなり小さいが蜘蛛は怖くて気持ち悪く感じたので思いっきりつぶそうとした。ところが、つぶそうとした蜘蛛の体内から真っ赤な火が現れ、その火はわたしと同じくらいの大きさの男の黒い影に変わる。びっくりして逃げようとするわたしに男はまるで忍者のようになにか手裏剣のような小刀を投げ、それは私の左腕に当たってわたしの左腕はどこかへ持ち去られたように感じて目が覚める。

 

【そして別の日の夢】

夜。部屋に入るとベッドに妹がいた。妹は「この部屋にマムシがいる」という。わたしは怖くなってマムシがどこにいるのか教えてもらおうとし、同時に部屋の中をきょろきょろと探す。

妹は私に向かって「体の中にいる」と言い、それを聞いて、わたしは自分の体内に蛇のようなものがあるイメージが浮かんできたところで目が覚める。

夢想するわたし

とあるヒーリングの技術を一人で練習している。

習った時に、先生から「この技術は練習するときには人や動物にしないでください」と注意があって、それで椅子やぬいぐるみを使っている。

 

練習しながら、ヒーラーや占いを生業にしている人たちのことをふと思い出した。

どこかで読んだ話なのだが、そういう職業が成り立つ人たちというのは過去生で似たようなことをしていて、そのときに縁あってきてくれた人たちが来てくれるのだという。

だから、そうでない場合には、まず身近で困っている人がいたら助けてあげて徐々に縁を作っていって、技術対人面でのスキルを複数の人生を通して作っていくんだろうなあと想像した。

 

さて、ヒーリングの練習をしている私の前にはただの椅子があるだけだ。ここに人がいると想像して私は練習する。この想像された人は、やがて引き寄せの法則によってどこかで人として出会うのだろうか?とふと考えた。

 

もしそうなら、本当のヒーラーへの道はまず想像すること、想像して人を引き寄せていくこと、こういうところから始まるのかななんて感じた。

 

ぼんやりとわたしは想う。パステル調に塗られた雲のように。

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「リベラル」への憎悪が生んだ結果

アメリカ大統領選をめぐる出来事は最後死者までだすという結末に、考えなければならないなあ、と感じているblueroseです。

印象的だったのは、トランプ氏を支持する人々が暴動を起こした後に事態の収拾を呼びかけるトランプさん自身が最初、彼らを擁護する発言の後、一転して非難する声明を発表したことです。

政治の話をするのが難しいのはこういうところ。議論だけでは解決不能なほどアメリカの民衆の不満があって、トランプさんがそれを可視化したと感じている私にとって、このことを言うと某陰謀論主義者の何某と同じなのか、と反対陣営からもツッコミが入りそうな不安があります。

 

アメリカの「議論」でわからないなあ、と感じるのはどこまでが問題に対する議論なのか、ということです。たまにテレビでみる討論では相手への人格攻撃が入ってるように感じてしまいます。言論の自由があるとはいえ、欧米の言葉の辛辣さにはついていけないと感じることが度々あって、そういう言語圏に住む人々から見ると私の考えは「軟弱・臆病・優柔不断」と映るのではないかと感じているのです。

 

それでも、そういう厳しい言葉を使い慣れているがゆえに、彼らのスピーチは時に人々に感動を与えることがあります。

テニスプレーヤーの大坂なおみさんが人種差別に発言したことは記憶に新しいですけど、そういう国に住んでいると、そういう強さを身に着けることも必要になるのかな、と思うこともありました。

 

突然こういうことを書き始めたのは、シュワルツェネッガーさんの発言がネットに上がっているのを見たから。

感動と若干の違和感を感じながら。