先日、わたしはとあるセッションを受けたことについてそのあとの感じ方と共に記事にした。
そのセッションで使われたアプレンティスカードは他にも何枚か選んで並べていたのだが、その中の一枚。
これはこのカードの箱の表紙にも使われているデザインで、これの同じ柄のカードを5枚か6枚くらいきれいに並べて撮影したものをセラピストは見せてくれた。
それは圧倒されるような美しさで
「すごいですね!まるでステンドグラスみたいです」
とわたしは興奮してしゃべった。
セラピストは
「この画像を見てもらうと、エネルギーがすごい、という人が多いです」という趣旨のことをたくさんしゃべっていて、そのエネルギーというのはおそらく身体が感じる熱とか熱気とかピリピリした感じとか、そんな話だろうな、と思いながら聞いていた。
思う、と書いてしまうのは、私自身はその画像に圧倒的な美しさ、そして荘厳な感じ、力のある美術品が持つあの気高さ、みたいなものを感じていたからであって、「エネルギー」という表現のもつ、自分の感覚とはちょっと違ったからであった。
レイキをやっているから、エネルギーなるものの実感はああいう感じなのだろうと思っただけの想像。
そんな違いを思ったので、わたしはこう言った。
「エネルギーを感じるというのはよくわからない。わたしが感じるのは感情としてきれいとか美しいとか、そういうものを通してこれを感じている」
で、そのことはそれで終わった。
それから少し時間が経過して、なんとなくそのことを思い出して、今この記事を書き始めた。
「感じる」
ということ。
「エネルギー」という表現でそのカードから発せられる何かを感じる人たちはスピリチュアル的はヒーリングをやっている人が多いだろうと想像する。
「きれい、美しい」という表現は、自分の中では当たり前の表現で、これが先に出てきても不思議ではないから、初めて自分はその違いについてなにか気が付いたみたいだった。
自分の感覚から行くと、きれい美しい感動する、というのは「エネルギー」というのとちょっと違って、内側から湧き上がる強い力のように感じる。感情と表現したけど、違うかもしれないが、感情だと自分は思っている。
私はヒーリングの世界に少し通っていたわけだが、あまりなじめないというか、相手の感覚がよくわからないし、しまいには自分も疲れてしまって、相手がよくしてくれるのに悪いな、とか思うくらいでどんどん不愛想になったり、逆に、相手がこちらを避けるようになったり、そんな風になっていた。
けど、同じものを見て、同じくいいものだと実感できても、受け取り方が違うともしかしたら話も合わないのかな、と少し考えた。
わたしが普段いる社会ではおそらく「エネルギーがすごい」と表現しても通じないような気がする。レイキだってお忍びでやってるようなものだし。「類友」じゃなかったのかもしれない。というか、自分がそういうものに接してもエネルギーがすごいという風にはならない。
急に話は20世紀末、精神科に入院する前のことになる。
あるとき、わたしは夢を見た。
吸血鬼、だと思った人物が追いかけてくる。わたしはデパートの最上階から非常階段を伝って逃げる。地上に出たとき、急にわたしは振り向いて、その人を見る。とたんに「この人は見るんじゃなくて感じるんだ」と気が付いて、その人に触れてみると、なにか自分に入ってきた気がして色は見えないけど緑色のなにかだとわかって、そこで目が覚める。
もう一つ、ほとんど自分が妄想というかふらふらして現実的な思考ができなくなっていたとき、地下鉄の中で急に感じたことがあった。それが光が見えないのに、自分の体のなかで心臓の部分が明らかに光っている、と体がそう感じていること。光ってるのは目でみてそう思ってるのではないのである。