bluerose’s diary

基礎疾患視点を中心に日々感じたこと

扉(ある日の心象風景)

取っ手が左側についているというのに、なぜか右側にいて扉の向こうへ行けないと泣いている人を見た。

それは最初、黄色い服の女の子だったのだが、つい最近、若い男性が黄色い服を着て泣いているので、ちょっと驚いた。

どうして気が付かないのだろう?

もしかすると、扉を開くことではなくて、別の理由があるのだろうか?

 

ふと、その男性のいる扉の横が90度に折れて別の扉がある。

そこは取っ手がすぐある。

そのことをふっと考えたとき。

 

男性はその扉を開いて中に入っていった。

中は納戸みたく要らないものがたくさん置かれている。

彼はその中で倒れ込み、頭から大きな黒い渦のようになって再び扉から外へ飛び出した。

渦は黒龍のようにその扉のある家をぐるりと囲むように迂回し、

家の裏側、南東方向へ飛び立ってゆく。

そのねじれたような身体が

エアプランツのフンキアナを連想させた。

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一方、男性の体は抜け殻のようにその納戸にとりのこされていたが、

足元から何者かが彼を引き込んでいくように消え、最後鉢植えに飾られた一株のエアプランツになった。

その名前を私は思い出せなかったが、あとで調べるとそのエアプランツの名は

シルシナータ

ということであった。

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-2019.12.05 12:24-

世界に争いが満ちようとも

人は、一人きりでも自分を愛し始めたら他人のことなど忘れてしまうのかな、と思っているのだが、見聞きするとむしろ

「他人のことをもっと愛し始める」

という。

 

機嫌がいいと確かに人に親切になるけど、愛し始めるのだろうか?と考えるとまだ不思議な気がしていた。

 

けれども、この間ふいに、「どんなものでも度を過ぎると美しかろうと醜かろうと人はそこへ触れるのを恐れる。未知のものに近づくからだ。」

と気がついた。

 

未知とは何か?

人間が有限であるがゆえに自分では到達しえないこと。

 

自分は自分のやり方で愛するが、他人は私ではできない方法で愛することができる。

それゆえに人はほかの人の愛に接したときに自分にないものを見つけて歓びを感じるのではないのかなあ、と考えた。

 

自分の知らない愛を知ること。

 

だから、どんなに争いが満ちていようとも、人間不信で人類が滅びることはなく、人とつながろうとしていくのだろうな、と。

 

ここまで書いたけど、やっぱりそのことがまだ不思議で神秘的に思える

意識の橋

もうすっごい昔、夢日記をつけ始めたとき、「意識の橋、無意識の(わすれた)」というタイトルをノートにつけたことがある。無意識につけた名前だったんだけど、このタイトルを思い出すようなことがあった。

 

自分の購読している新聞で、お題に絵や短文をつける小さなコーナーがある。今朝のお題は「不思議」。

著作権があるかもしれないので詳しくは書かないけれども、「超能力が使えないので歩道橋を使う(笑)」みたいな短文があった。子供のころのオカルトブームについて書かれていて、道路を渡るとき超能力が使えるといいけど、でも瞬間移動は使えないので、少し先の歩道橋を使うのであった、というような内容。

 

これを読んで、3年ほど前に見た夢を思い出した。

ちょうどヒーリング系のワークショップから帰ってきたあとなんだけど、ワークショップのメンバーの人と歩道橋を渡っているとき、そこから私は落下してしまう。けれども体は浮いていて、歩道橋の下にあった芝生で暮らしている小さな存在たちとお話をするという夢。会話で使われるのは身体を使った身振り手振りのようなものでそれができる自分にちょっと意外な感じがしていた。

夢を見たときにはわかるようなわからないような雰囲気だったけど、今朝の新聞記事で、歩道橋の意味が理解できた。それで要するにそのワークショップを自分はあまり理解できなかったらしいけど、無意識のほうでは新しい存在との出会いがあった、という風に解釈できた。

 

もう一つ、今朝の夢、新聞読む前だけど、壁沿いにあるく私は進行方向の目印に、壁の上に立ってる鬼の子の落とす雷を使っていて、道路の向こうで雷が落ちるのを見たらそれを目印に道路を渡るという内容だった。

これも起きて思い出した時には別になんとも思わず、新聞を読んでも気がつかなかったが、この記事を書こうと画面に向かった時に、この夢と新聞記事の酷似に気が付いて、

おおっ

となった。

 

そして、今、最初に(わすれた)書いたタイトル「意識の橋、無意識の…」のタイトルを思い出した。

「意識の橋、無意識の地下道」

である。

もう一つ、今朝思い出したイメージを書いて終わる。

 

「水の上にかかる橋の下を船で渡る女の子」

 

 

はがきの夢

少し前のことだけど、こんな夢をみた。

 

わたしは昔勤めていた会社にいる。

わたしの前任者が仕事をやめてその人の後を引き継ぐことになっていた。

前任者の机の引き出しを開けてみると、官製はがきの切手の印刷された部分だけ四角く切り抜かれたものが、たくさん出てきたのでびっくりした。

その切り抜かれたものを見ながら、彼はちょっと気が変になっていたのかなあ、と思う。

 夢の中では真剣だったのだが、目覚めてこの夢を思い出したとき、切手の切り抜きだけ集めてためこんでいた、という光景がなんかとてもシュールで笑いそうになった。

そして、自分もどこかでこれに似たことをしているかもしれないなあ、と思った。

 

官製はがきは全体で1つのものであり、切手の部分だけで使えるものではない。

それなのに、本当の切手のような絵が印刷されているそこだけに価値があるように思い込み他の部分は無駄だと切り捨てるような考え方。

 

【追記】

ここまで書いてから、もう一つ浮かんできた解釈。

切手の絵の部分を目に見える世界、余白その他を目に見えない世界と考えてみること。

 

リアル 現実 real

私たちは夢や空想や想像といった意識の中の物語を知覚できるが、そういう物語の中の存在とコンタクトを取っていたときのこと。

 

空想の中の女の子は昔腹が立ったこと、そういうものを一生懸命しゃべっている。

気が済むまでしゃべった後に、こちらを確認するように

 

「リアルは私を大切にしてくれるのかしら?」

 

と呟いた。

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おひめさま

 

 

世間では生きていくことに対していろんな考え方があるけれども、わりと支持される考え方の一つに

「現実を大切にする」

というのがあると思う。

わたし自身も物事がうまくいかなくなってるなあ、と感じたときはこの言葉を思い出す。

 

だから、件の女の子がいきなりそういう言葉を語った時、わたしはちょっとハッとして、現実を大切にしようと思ったとき、自分の中の夢や想像をどう扱っていたかまるっきり覚えていないことに気がついた。

 

一方で、リアルという言葉には「あるがまま」「現実感、実感」という意味がある。

女の子はもしかすると、現実生活を自分自身をあるがままに生きようとしたときに感じるあの不安を私に教えてくれたのかもしれない。

“2018年3月初めの夢”

電子書籍を作成できるサイトがあって、今日そのサイトの閉鎖を知らせるメールが届いた。数年前に登録して、自分の書いたものを少しまとめていたりした電子書籍が何冊かあって、それのダウンロードをしながら書いたものを読んでいた。

 

一番最後に書いた電子書籍の記事が去年の3月。そのあとは書いていない。

この記事は書いたけど非公開のままになっていたので、改めて転記しておこうと思う。

 

 

2014年から社会復帰しようと、アルバイトに出たり、勉強して資格を取ったり、習い事したりして頑張ってきたけど、とうとう電池切れにて、2017年後半には、心身共にボロボロな状態になってしまった。

 

そして、2018年になって、この状態ではいけないと、社会復帰に向けての活動を停止し、心身の癒しを優先させ始めて、2か月。

今朝の夢はこんな夢だった。

 

妹が絞られてしわしわのコートを着ており、私がそれを言うと、妹は怒り出す。

どこかの建物、人が何人かいて、私は窓の外にパノラマ状に見える海を眺めている。

海は不思議な丸い水の球が浮上しているのか落ちているのか、そんな感じで一面に見え、またその水の球にはろうそくのような小さな炎が燃えている。

 

 

見た感じはあまり不吉でもなく、なんだか随分不思議な光景に見えた。

夢占いのサイトでいくつかキーワードを調べてみて、自分なりの解釈は以下の通り。

 

 

海を眺める夢は、自分自身を見直すとき。ぶれやすさや、他人の言葉に左右されやすいなど、自分軸がしっかりしていなくて、気分のむらから周囲に迷惑をかけたりしていなかったか?

一方で、炎の夢は、浄化の夢であり、これまでの停滞や運の悪さを焼き払ってくれる。

 

 

前日に、経済的なことや世間体のために義理を立ててることで、心が苦しんでいることがあるとしたらそれをやめるとなにが起こるだろうか?という問いを手帳に書き記した。

関連性があると感じるのはこの手帳の言葉のような気がする。

 

この記事の中で自分の夢の解釈を試みているが、自分の至らなかったことは言及されているものの、「絞られてしわしわになったコート」のところを見事に飛ばしていて、今読んでちょっとため息が出てしまった。

解釈を考えるまでもなく、自分自身を厳しく追い込んだということがこのコートのありように現れている。けれどもそれを着ている妹(たぶん影の世間体を気にしている私に似ている)はそれを認めたくなくて怒っているようだ。

 

あの頃はいろいろ大変だったなあ…

“2015年夏”向精神薬を止めて間もなく1年になろうとしていたころ

お久しぶりです。

家族の死がありちょっと更新ができませんでした。

今も書くことがなく、このまま放置かなあとうすうす思っていたのですが。

このブログを立ち上げる前に、個人的に自分の思う所を書いていたブログがあって(今は閉鎖)そのログが出てきました。

読んでいるうちに懐かしくなって、ちょっとここに転記してみようと思い立った次第です。向精神薬止めて間もなく1年になろうとしていたころ、ぶっ飛んで生活していたころのことです。

 

07/05/2015 06:26:41

んーなんかわからないけれども、状況がネガティブ。
とある限定記事で凶悪犯罪を起こした少年のことが出てきて、彼が特殊な知覚の持ち主であるということを知った。どうも過去にみた映像の記憶が凄いらしく、ずっと昔のこともまるで映画を見ているように細かく思い出せるのだそうだ。そういう特殊な知覚の元で、彼が体験してきたこの世の中はどんなふうに見えていたのか?
ということをつらつら考えていて、ついでに自分を含めた精神疾患既往歴の人とか、この社会にどんなものを見ているのだろうか、とか考えてみた。

それとは別に、最近家の中のことができなくて、家族に多分心配されてそのことについて声をかけられたのだけど、わたしにはどうしても彼らの言葉が、義務を放棄して遊びまわってる怠け者、という非難にしか聴こえずに、かなりのデプレッションになる。ジコケーハツスピリチュアル界隈ではそれは自分自身を非難している投影だろうというだろうな。自分もそのことを考えた。だが、わたしにはどうしても、やはり彼らは彼らの基準で物事を判断していて、そこから逸脱しているわたしは、多少のハンデはあっても、家事くらいできるだろうとかやっぱり言ってるよな、とか感じる。それは「外に出かけてはいるのに」という一言に含まれている。

とはいっても、それ元精神病の被害妄想だとか思われるんだろうな。
もし、彼らも自分のしたくないことをしないで遊んだら家はどうなるだろうか?
とか少し考えた。
結果は「なんかやってみればいいのに、わたしもそれで自分がどう動くか知りたいし」
…まあ、言えないよな。責任感と義務感のかたまりで維持してきた模範的な家庭だもの。だからこそわたしも感謝してはいるんだけれども、どうも自分がどこかで絶望しているんだなとか思ったら、その義務に加担する気が起きてこなくてな。「わたしばっかり」という不満が見え隠れしている、のは自分も同じなのかもしれない。
ま、家族全員がそうじゃないんだけど、やっぱり「役たたず」というのはだめらしい。

 

 

気がつけば時間が飛んで知らない時刻になっている。
世の中が不思議な虚構の世界に見える。
リアリティは自分が考えていることだけになってる。

 

 

なんかやっぱり少し変だな。とはいっても、きっと何かあるような気がするんだけど、それは不毛なのか?
人は不毛だからやめなさい、という。
しかし、どうなんだろう?人が不毛に見えることはわたしにとって不毛なことなのかどうか、このごろわからなくなってきた。
まあ、人殺しはいかんけれども。

 


 13:06:22

あっ、
笑犬楼さま*1の日記更新されてる。

とか思ってサイトへ行き、最新の日記を読んだ後、読者からのコメントへ飛んでみたところ。

“…普通100を目指すところ「111.11111…」どこまで行くねん…”

とかいう部分があってひっくり返りそうになった。
「さて、虚構なら虚構らしくこんな数字はいかが?」とばかりの8ケタ。
1111がなんと2つもあるのですぞ。*2

ちなみに、そのあとその方は
“逆に「99.99999…」抑えた作風が”
とか書いてるし。
ライトワーカーどんだけ急げばいいのかw*3

いや、虚構の世界に迷い込んだ、とか書くと高次元の皆さんはこんな遊びをするんでしょうか?

 

 

【追記】
画面見てたら「二進法」とかお告げきたw*4
で、10進法になおしたら「255」
これのエンジェルナンバーで検索一位のサイトをみると

エンジェルナンバー【255】
あなたが経験している変化は、最善のものだと信じましょう。
なぜなら、それは本当だからです。
http://iwr-myself.com/angelnumber-255/


ということらしいです。
虚数は“i”でしたな。*5

 

 

この時期はスピリチュアルや精神科の薬のことでかなりテンパっていてここで失敗したら…という恐れが無意識にあった。2017年に崩れて再び薬のお世話になるまでほんと鬼のように生活していた。仏陀でいうところのスジャータおかゆもらう前の修行時代みたいなイメージ。

 

今現在はゆるゆるやってます。

 

*1:筒井康隆

*2:いわゆるエンジェルナンバーと呼ばれるもの。4桁の1はゲートとか言われて新しい目覚めを促すものとしての合図だといわれている。

*3:エンジェルナンバーで9の並びは「自分の仕事に取り掛かりなさい」というメッセージに関係しているという。

*4:この時はどこかにこの言葉が浮かんできた。

*5:iを愛とか英語の私という意味のIに掛けている