この間、初めての場所へ行った。
どうしようかちょっと迷っていたのだけど、この際だから行ってみようと思ったのだ。
でも、なんとなく落ち着かなくて、当日易なんぞを立ててみたら、また困難の卦が出たりして、やらなきゃよかった、とかへこんだり。
そう思いつつも出かけて、用心したおかげか、ちょっとした失敗はあったもののなんとか無事終わった。そのあと帰り道でその場所で一緒だった人と少し話をしたのだが、この方と話をしているときに、自分の道化性というかそういうものを自覚して、帰ってきてから、なぜか
「まあ、今この道化をやりたいんだろうから飽きるまでやるがいいさ」
と思った。
そこで、初めて私は、少なくとも人と人との関係性においては自分の本質などと思っているものはその持っている特性の一部にすぎず、これを人によって使い分けているだけなんだな、と気がついた。
そして、人の本質というのは、「無」というものそのものではないかと思った。(空とか虚という言い方も当てはまる)
なぜそんなことがすらすらと思い浮かんできたのか?
思いつくのは自分がずっとここ数年聞き続けているラジオ番組のような「幻聴たち」の声である。
この声はもしかすると多重人格の一つの表現なのではないか、そして、分離された「わたし」の意識や性格のうち自覚したものが「道化」みたいだなと思った。そしてそれは私自身というには少し他人事のように思えたのである。
この幻聴たちは声も老若男女が入交じり、さらに同じ声の持ち主が幼くなったり、オクターブを変えて裏声になったりと、なんだか一見(一聴?)カオスのようでわけがわからなかったのだ。
けれども、ずっと聞かされていくうちに虹のように秩序だった部分が見えてきて、そこに現実の人との出会いで、それが何を意味するかわかったのである。そして、「彼ら」が虹だとすると、聞いている私はプリズムで分離されていない「光」そのものではないだろうか?と感じた。それが上記の人格についての解釈へと繋がっていったように思えるのである。
(拾った画像。こんな感じじゃないけど、なんか笑ったので貼り付けてみた…3/19追記)
実は、このことがある数日前に、耳をマッサージしていると、ふいに、聞こえない方の耳(この耳は幻聴が聞こえる耳でもあるのだ)たぶに真珠のような光の珠がイメージされた。
以前、初めて幻聴が現れたときには耳の上にまるで耳かけ式の補聴器のように黒い箱がイメージされたが、もうそのようなものはなくなっていた。
耳が聞こえないことを漢字で「聾」と書く。
筒井康隆さんがどこかで書いていたがこの字は「龍の耳」と書く。
そして、その時は私を触発してくれた方と龍の話を少しだけしたのであった。
ところで、道化のことだが、どうやらこの性格は「インナーチャイルド」にも関係しているらしく、自分はこの部分を出したいのだけど、過去にこれをやっていつも最後に傷ついていたかもしれない、と思った。そして傷つけているのは他人ではなく、その振る舞いを心のどこかで苦々しく思っている私なのであった。
ただ、これがわかったからといって、にわかに生活が変わるわけでもないけど、まあ、無理しないでいこうと思います。