49にちなんで詩篇第49篇を掲げる。
- 指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。
- 諸国の民よ、これを聞け
この世に住む者は皆、耳を傾けよ- 人の子らはすべて
豊かな人も貧しい人も。- わたしの口は知恵を語り
わたしの心は英知を思う。- わたしの格言に耳を傾け
竪琴を奏でて謎を解く。- 災いのふりかかる日
わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも
どうして恐れることがあろうか- 財宝を頼みとし、富の力を誇るものを。
- 神に対して、人は兄弟をも贖いえない。
神に身代金を払うことはできない。- 魂を贖う値は高く
とこしえに、払い終えることはない。- 人は永遠に生きようか。
墓穴を見ずにすむであろうか。- 人が見ることは
知恵ある者も死に
無知な者、愚かな者と共に滅び
財宝を他人に遺さねばならないということ。- 自分の名を付けた地所を持っていても
その土の底だけが彼らのとこしえの家
代々に、彼らが住まう所。- 人間は栄華のうちにとどまることはできない。
屠られる者に等しい。- これが自分の力に頼る者の道
自分の口の言葉に満足する者の行く末。- 陰府に置かれた羊の群れ
死が彼らを飼う。
朝になれば正しい人がその上を踏んで行き
誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。- しかし、神はわたしの魂を贖い
陰府の手から取り上げてくださる。- 人に富が増し、その家に名誉が加わるときも
あなたは恐れることはない。- 死ぬときには、何ひとつ携えて行くことができず
名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。- 命のある間に、その魂が祝福され
幸福を人がたたえても- 彼は父祖の列に帰り
永遠に光を見ることはない。- 人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。
屠られる獣に等しい。(新共同訳)
この内容読んでいて、ふと『敦盛』のあの有名すぎる一節を連想してしまう。
例の、信長が好んで舞ったというあの謡
“人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか”
ちょうど数年前から時折この一節が頭の中をふっとかすめることがあって、人生のはかなさなどを感じていたのだけど、旧約聖書の詩篇49が、やはり人間の一生のはかなさを説いていたとは、なんだか不思議なものである。
このあたりの数字はそういうことを人間に想起させるものなのだろうか…