bluerose’s diary

基礎疾患視点を中心に日々感じたこと

理解されないこと

再びアリスパパさんのブログ記事から。

ameblo.jp

この記事の中で、グループ運営にあたり、思い入れが強すぎて受け入れられず破壊的なことをしてグループを壊してしまう人について触れられている。以前このブログの別な記事のところで、この問題をコメントで指摘していた人も見かけたし、よくあることなのだろう。民間で活動するときの難しさ。

 

しかし、アリスパパさんはそのあと、このようなことを述べてらっしゃる。

けれども、その筋金入りのデストロイヤーが時々驚くような回復を見せる時がある。だから門戸はいつも開かれている必要もある。

精神疾患と診断され、そこから脱却するためには多大な精神力が必要とされる。大抵は抑圧されていた自分の想いをまず解放することが大切だ。ところがこの解放したい部分は長年日の目をみなかったものだから、表現方法に難があってエナジーだけがやたら強い、原始的な状態に置かれている。中井久夫先生は暴力は低い次元の一体化、ということをおっしゃられていたが、まさにそういう状態でグループに参加するとこういうもめ

事になるのではないかと思う。

 

しかし、こうしてあちらこちらで煙たがられて暴れているうちに、だんだんとそのエネルギーが整ってくることがあるのではないだろうか?いわば詰まっている管から汚い汚物が出た後に綺麗な水が流れ出すような感じで。これが驚くほどの回復として周囲に認知されるのだと想像する。あるいはそこまで至るに彼自身が人間関係でもまれていわば磨かれるということもあるかもしれない。

 

うまくいかないのは、彼自身の忍耐のなさもあるだろうが、破壊されるほうにも忍耐があったかどうか、これも大切で、こういう問題はどちらかが100パーセント悪いとはいえない。既成の社会通念での良し悪しで図るならばこういうトラブルの解消はまず難しい。今述べたことは組織を存続させることではなくて、ダメなら最初からやり直す覚悟も必要かもしれない、ということを含めている。

 

デストロイヤー当事者側について自分の感想を述べると、暴れるのは理解してほしいという根底的な欲求がある。その欲求が周りに理解されない、このことを自分がどう受け入れるかということがあるかもしれない。理解されない、という思いは驚くほど人間を弱くしてしまうものだ。なぜならそれは自分自身を他人に譲り渡すことなので、自分自身が自分自身でなくなってしまうからだ。

 

今これを書いているのはまさに自分が今、そのことをどう自分に落とし込むか、という問題を認識し始めているから。それは一般的な人生修養では解決できないほどの断絶を伴っている。そんなことはないと、もしかしたら思うかもしれない。ただ、自分自身の深い幻影、そしてそれを語っても通じないこと。かろうじて物語に似たようなものがあって、他の人が知らないわけではないとはわかっていても、それはやっぱり他人のもので自分にとっては代替品であること。ここを乗り越えるためにここまでやってきたのだ。

 

絆や連帯がささやかれている今、そこからはみだし、相手も理解できない自分、そして相手から理解してもらえない自分。そこに光を当てていくこと。しかしわかったつもりにならないこと。