bluerose’s diary

基礎疾患視点を中心に日々感じたこと

こども時代

わたしは自分がちょっと変わっていると思っていたが、ではどう変わっているのか、というとよくわからなかった。わからないのに変わっていると思うのは非論理的だが、この間小学校時代の文集を見つけてそれを読んでいるうちに、興味の対象が当時のクラスメートと一線を画していたので、それでなんとなく自分が変わっているかも、と思い始めたのかもしれない。

 

文集には卒業に当たって学校生活の思い出を書いた作文と、自分のミニ経歴、趣味や将来の夢とか、そんなものを書いたものとあった。

大方のクラスメートは学校行事、修学旅行や学芸会の思い出を書いている。中には特定の行事にこだわらず、学校生活そのものを俯瞰したような内容を書いている子もいた。

で、わたしはどうかというと、修学旅行の、とある一シーンを抜き出してそれを延々と書いていたのである。それもまるで小説の一シーンのように描写しておりノンフィクションですらない。このものの捉え方に自分はびっくりした。

 

さらに、ミニ経歴の方。クラスメートの大半が切手集めや小物集めキャラクターグッズ集めなど、収集趣味を書いてる。それから読書マンガなどのメディア鑑賞やプラモデル作りなどモノづくりの趣味。

そんな中でわたしはというと、およそ子供らしくないがでも乙女のような学問の趣味を書いていた。特定されそうなので特にその名は伏す。

 

この二つの、他とは毛色の違う雰囲気に、「ああ、これは自分変わってると感じるのも無理はないわ」と思った。この文集だけで判断したら自分はこだわりが強い発達特性を持ってると思われたかもしれない。

 

ところが、わたくし非常に新しもの好きだが飽きっぽくて、この点こだわりと全く違う特性が顔をのぞかせる。

 

私のものの捉え方はつねに両極端をいっていたような気がする、とこの頃思う。これが傍から見ると意志の弱さ、優柔不断に見えたのではないかと思う。で、突然確固たる行動をとって周りを驚かせることがあるのだが、自分としては衝動的でもなんでもなくてちゃんとそう判断して行動しているのである。で、その判断がこないと一般的にはたやすいと思われる選択が全くできなくて悩むので、なんでそんなことに悩むのか不思議がられることもある。

 

この辺が自分自身で把握できていないと、周りからやいのやいのと言われるたびに苦しんでしまう。それは信念があるとか、信念を持て、とか意志の力とかそういうものが他の人の捉え方と違っていたからそんな風に摩擦が起こって悩むということに繋がっていたのだな、とこの頃ようやくわかってきた。

 

それがわかってくると、今まで私に自己主張しろとかそんな類のアドバイスや占いの言葉に理不尽な思いをしたのも道理だと気がつき、なんだか少し気が楽になった。意志力がないわけではない。他の人と感覚が違うために言葉による齟齬が起こっているだけだと納得できるのだ。

 

だから無茶ぶりアドバイスで怒ったり落ち込んだりすると、自分と言葉の捉え方が違うのだろうとこの頃はそう思うようにしている。まあそれでも人間関係はなかなか自分にとっては難物ではありますが。