bluerose’s diary

15年間の向精神薬服用生活から断薬しました。

お試しか?

私は、ある特定のことについて何かしらの困惑を抱えていることに気がついた。

自分はそんなものはそれほどないと思い込んでいたのだけど、よくよく考えるとその事柄に対して、真っ向から取り組んだことがなくて、無意識に流していたのではないかと思ったのだ。

 

それで、常識的に考えると、自分は結構それで自分を制約しているかもしれない、と思った。もちろん、私が思い込んでいる観念は、他の人も結構抱えている問題だし、それほど責められるようなものではないのだが、気になりだしてきたので、少しこのことについて考えてみようと、思った矢先。

 

まるで「お試し?」と思うような出来事が起こった。

それは自分に若干関係するけれどもあまりタッチしていないことについて時間がとれるか?と聞かれたことから始まる。

私はその時期、集中していたいことがあるので、一瞬困ったのだが、時間を取ってと指示された時期は時間が空いていたし、そういう用事は自分も関係しているからやらなくてはならないのだろうと当たり前に思って、承諾の返事をした。

 

して、返事をしてから、もう一人同じ用事の人がいたのだが、その人はどうしたのだろう?と思って聞くと、「時間取りたくない」と聞いたので、自分はまた一瞬絶句した。

 

 

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…自分時間とらなくてもいいのかな…

 

その用事は通常関わっている人は一緒に行うべきものだけど、一応例外も認められている。だからどうなるかわからないけど。

 

それよりも、自分はそういう用事があった時に行かなくてはならないと思っていてほとんど条件反射的に「いえす」とか言ってしまったのだが、「のう」という選択肢もあったんだな、と気がつかされた。

 

で、思い出したのは、今回とは別の話だけど、やはり私は行かなくてはならないし、実際ほとんどの人は行ったとある用事のことだ。そこで私は「行かなかった」とこともなげにいう人を見つけて、結構衝撃を受けたのだった。それで自分はかなり考え込んでしまったことがある。

 

二つの用事はまったく違うようで、実は同じ性質のものだ。

既にあなたは参加していて、利益を得る可能性を与えている。だからこうしてほしい。

という無言の圧力、というと人聞き悪いかもしれないけど、要するに自分がその人たちの要請に反して安全圏から外れてしまったらどうしよう、という恐れだ。

 

まあ、今回の場合は、要請してきた人も詳しいことはあまりわからないようで、私と同じように考えていたから、私もちょっと自分のことは置いといて、やらなくてはならんのだろうと思った。それでも、自分のことを優先して「やりたくない」と言って交渉することは可能なのである。

 

こうしてみると、私は如何に自分の気持ちをよそに生活してきたのだろう、と感じる。

 

古い流行り言葉だけど

「NO」と言える、なんとか

ということについて少し意識的になってみよう。