bluerose’s diary

基礎疾患視点を中心に日々感じたこと

からだと向き合うこと

喘息の調子の目安としているPF値は依然回復しないが、日常生活はまずますできている。

ところが、そのうち吸入ステロイドを使っていたころの動ける体調の記憶のままどこかでかけたりするとたちまち調子を崩して安静を余儀なくされるはめとなる。

つまり、自分のからだのことをすっかり忘れてしまうと、調子を崩してしまうからいつもいつも丁寧に自分のからだに向き合う生活を強いられている、というと自分に悪いかw

 

こんなことを考えたときに、ふとスポーツ選手のドーピングについて連想が浮かんできた。ドーピングがなぜ悪いかというと私が見聞きするところでは将来的に体を悪くするから、ということ。これは正論ではあろう。しかし短い競技生活で強くなりたいと思う気持ちは否定できないのではないか?

これが、慢性疾患持ちにおける薬の「長期連用」に似てなくもない、

ということ。

 

極力薬を減らしての生活は、以前の薬ありき、の生活とは違う視点を提供してくれる。私に関していえば、喘息で調子悪くなったときの体の感覚や、感情が、昔まだなにも持病を持っていなかったころの感情の動きや体調不全を思い出させてくれる。あのときは無理していたんだ、とか、別に自分が神経質ではなくて、体調の不安から神経質な感じ方になっていたのだ、ということが理解できるのだ。

 

実際、吸入ステロイドで「健康的な」体調を維持していたころは、これが「本来の自分だ」と錯覚していたかもしれない。体はよく動いてあちこち自転車で出かけていたから自分って結構運動好きなんだとか。

しかし、精神的にはどこか空回りしていたのではないか?

 

そうやって、自分の体を薬で補っているうちに、自分の本当の「いま」がわからなくなってしまう。

 

身体を極めることを仕事にしているスポーツ選手が自分のからだの「いま」を知ることができなくなったら、早晩その選手の肉体はどこかきしみはじめるのではないだろうか?

 

だからといって、わたしは薬やドーピングが悪いとは思っていない。

ドーピングがいけないのはただ、みんな「同じ条件」でなくなることがフェアでない、という意味程度にしかとっていないので。

 

しかし、今の生活から、薬やドーピングのわたしなりの意味を悟る。他の人は個人の趣味で薬を使ったりドーピングしたりすればいいけれど、やりきれないのは、その薬で上げ底された「体力・能力」でなければ社会生活や競技生活を送るのが難しい人間にそれを「強いる」環境が多すぎる、ということである。

 

人が「病気」に向き合う権利はそのまま自分自身と向き合う権利になるのだが、この権利が結構理解されていないよね、なんて思ったりした。

 

やりたいことができる、それと同じくらい

できない自分を味わう。

それは限りなく真の休息に近いものだと思うのだが。