bluerose’s diary

基礎疾患視点を中心に日々感じたこと

覚醒時意識と睡眠時意識

夢はしばしばあり得ない情景や普段とは違う自分の在り方が出てきて、解釈するのはなかなか難しいことがある。夢の中の自分といつもの自分が一致すれば解釈などしなくても夢がわかるのだろうか?

 

長年夢日記をつけてきて、もどかしいと感じていたことはいつもそれなのであった。夢がなにを言っているのかわかる方法はないだろうか?と外へ向かって個別の意味を調べては「そうなのかな?」「そうかも」「なんか違う」と一喜一憂していた時代がかなり長かった。

 

その、長年の疑問が解けるかもしれないというヒントが見えてきた。

数年前にまたあった精神病的変性意識に突入する少し前に、夢がなんか知らないけど言葉で説明できないんだが、なんかわかる、という感じがし始めていた。言葉が思いつくものはメモしてみたりしたりした。自分どうしたんだろう、それとも長い事夢日記つけていたから、少しはわかるようになってきたのだろうか、と急に始まったこういう感じ方に最初は首をかしげていた。そのうち変性意識がすごくなって、夢どころではなくなったのだが、そこから断薬してその断薬も落ち着いてきた最近に、起きているときの自分と夢の中の自分についての、ある直感が浮かんできた。

それが正しいのかどうかは証明のしようがないのだけど、その方式で過去の夢を読み返してみると、自分の中でとてもうまく説明できるものがたくさんあるので、自分の場合はたぶんこれだろう、という気がしている。

 

わたしの場合、その方式とは、

起きている自分→頭での思考

睡眠時夢の中の自分→身体感覚からの思考

 

という図式。いわば夢の中の自分は頭と身体の主導権が逆転していて、身体が感じたことで思考して行動しているようなのであった。

 

この考え方である夢を検証した。

ずっと前、30代になるかならないかのころだと思ったが、こんな夢をみた。

わたしが横たわっているとお坊さんがやってきて

「かわいそうに、首がない」

というのでショックで目が覚めた

 起きてから考えて、私はどちらかといえば頭でっかちの人間なので首がない、と言われるのが意外だった覚えがある。意表を突かれた感じ。でも先のことを当てはめてみると起きているときの自分に変換した場合は

「身体がない=身体を無視している」となり、身体の意識体である自分からすると「頭=身体がない、自分どうやって生きているんだ?」という話になるんだろうと思う。

 

よく、夢の種類には重要なものとそうでないもの、日常的なものがある、と言われるが、私にはその区別がつかなくて、見た夢をほとんど記録していた時期もあった。だが、この方式だとすると、確かに重要なものとそうでないものがあるという意味がわかる。人は日記をつけるとき、自分が重要だと思ったことを書くわけで、そのほかの部分は経験しても書かない。それと同じことなのだろうと思う。

 

そう思ったら、見た夢をいちいち記録しなくてもいいな、となんだか肩の荷がおりた気分になった。ということで最近は朝夢を覚えていてもよほどでない限りあまり記録していない。

 

ただ、起きているときと夢をみているときの意識の違いを見るために資料として丹念に普通の日記と夢日記をつけていたら、さぞかし「私」という人間の意識の傾向がはっきりするだろう。実際、そこを目指して両方詳しくやろうと思ったのが、共時性に関する本を読んだ2010年ころのことだった。その願いは叶ったのかどうか、ある意味そうなのかもしれない。

変性意識に突入するときの感じというのがある程度あぶりだされたから。

 

とはいっても、自分自身のことを知るのは難しい。いまだに読んでもわからないもの。あと夢予知もよくわからないなあ、あるのかもしれないがパターンが読めないし、そもそも自分は夢予知に興味がないから覚えていなかったかも、というのがあるかもしれないな。