bluerose’s diary

基礎疾患視点を中心に日々感じたこと

薬のやめどきは人それぞれなのかもしれない

薬は飲まないに越したことはない、これはずっとそう思っていることだが、薬をいつ辞めるか、ということになるとこれはもう人それぞれなのだな、と思うようになった。数か月ほど前までは、止めたいと思ったら止めた方がいいという考えだったのだが、最近の自分の状況とか、昔自分が薬を止めたときのことなど思い出すと、一概に辞めたくなった時が止め時とはいえなくなったのだ。

 

今、薬ではなくてある種の依存症みたいな状況があってそれから離れなければならないと感じている自分がいる。しかしこれがなかなかうまくいかない。その状況がまだ必要なのかそれとも単なる依存なのか判断がつかないのである。このことに頭を悩ませていたのだが、今日昔の断薬や禁煙のことを思い出して、やめたいときにやめられるとは限らないなと気がついた。

 

このブログで取り上げられている向精神薬の断薬のことから始めよう。

今断薬してあと数か月で2年を迎えるが、今の断薬より数年ほど前に、やはり薬はいらないのではないかと思って断薬を目標に減薬を試みたのだった。ところが当時はネットで減薬の情報を探せなかったし、医師に相談したわけでもなく、ましてやなぜ薬をやめるのか、という動機がしっかりしていなかった。ただ体に合ってない感じがしたのでやめてみようとおもっただけである。当然この減薬は失敗して元の木阿弥となった。

 

次に禁煙の話。

精神科病院から退院してきてから家で禁煙のことが出た。私はなぜ禁煙しなくてはならないのか承服しかねたので、反発しながら外出先で吸ったり、窓を開けて吸っていたりした。たばこはよくないというのはわかるのだけど、自分がやめたい理由もないのにただ家に置いてもらっているという負い目から家では吸わない選択をしたのであり禁煙したわけではなかった。

ところが、数年後に呼吸器疾患になってることが判明しその診断が下るや否や、私はたばこ代を治療費に使おうと思ってそれからぴたりとたばこを吸わなくなったのである。世間では禁煙はつらいということだったが、そのときは全然つらいと思わなかった。

 

 

過去の事例からわたし自身の場合、やめる動機がしっかりしてるかどうかで成功するかどうか決まるようだ。仮になにかを止めたいと思っても、“なぜやめるのか”というところがふらついていると失敗した。

 

 

これを一般の話に当てはめるのはしごく乱暴な話ではあるが、それをあえてやってみるならば、薬のやめどきは人それぞれであり、その人自身がやめる動機をしっかり持たない以上、周りが止めた方がいいといっても余計なお世話と恨まれるだけだし、反発をくらうだろう。

また、止めたいと思ってもどうもうまくいかない人、この人もなぜやめるのか、という動機をしっかり確認したほうがいいのかもしれない。漠然とやめたいから、というだけだと失敗する可能性はたかいし、離脱症状などに耐えられないこともある。それならばまだ止めないでしばらく様子をみたほうがいいという話にもなってくる。

--------(ここまでタイトルの話)----------

ところで自分の依存症的な悩みの話。

主語を大きくして、ここまで考え、今の自分の状況を考えてみるとやはりなぜ離れなくてはならないのか、という明確な動機が出てこない。ただなんとなく自分が不健康だし自尊心を持てないからというところだけではどうも弱いようだ。薬と違って体を壊すような話ではないが、気をつけないと生活が乱れるので離れて自分自身を取り戻したいというのはきれいごとで、もっと差し迫った理由とか、具体的な動機が必要なのかもしれぬ。まあ、周りの人はそれを「本人が気づくように」とか言うんだけどね。でもそれを言われるとなんか反発したくなるし。

言葉は難しい。