bluerose’s diary

基礎疾患視点を中心に日々感じたこと

日記の処分

夢日記を継続してつけているが、その一部を処分した。処分した時期は自殺未遂で入院する2年ほど前から入院退院後の4年ほどくらい経過したおよそ6年分である。もっとも、この時期は入院するまでの2年間のものがほとんどで、そのあとの4年間はほとんど書いていない。同じノートに継続して記録されていたので、半ば道連れの形であった。

 

夢日記は20代半ばから本格的に記録し始めた。そこから入院するまで7年間あるが、処分した2年はそれまでの記録の3分の2を占めるほどに多い。ひしめくようにして記録された夢は収拾がついてなかったが、数年前、丁度東日本大震災の年に、ブログでそれまでの精神疾患のまとめとともに、一応自分なりにめどをつけた。今は電子書籍にして保存してある。

p.booklog.jp

めどをつけてから2年後に2回目の急性期が発現して、この体験において電子書籍にした当時とはかなり考え方が変わったのであるが、夢のほうもそれに呼応して変化している。だからもう古い夢の記録はいつ処分してもよかったのであるが、なかなか処分する気になれなかった。なんとなく自分の一部がなくなるような気がしていたのである。

 

だが、今年に入りさらに自分自身の断捨離が進んできて、半年が経過しその執着というか、捨てられないと思っていた夢日記の一部を捨てても大丈夫だと思えるところまできた。若いころの分と、21世紀に入ってからの夢はまだ自分の中で咀嚼中のため保存するが、それにしてもここまできたことに感無量。

 

夢日記の一部とともに、数年前自己啓発に少しはまっていたころの覚書も処分したのであるが、破こうとして開いたページにクリシュナムルティの言葉が記録されていた。それを読んでまた感無量。

 

1968年

日ごとに死ぬ人は死を超えている。死ぬことは愛することである。美は過去の追憶の中にも明日のイメージの中にもない。

愛には過去も未来もない。あるとすればそれは記憶であり、愛ではない。

情熱を伴う愛は、社会、つまりあなたであるその領域を超越している。

死になさい。

するとそこに愛がある。

クリシュナムルティ 開いた扉 p85』