bluerose’s diary

基礎疾患視点を中心に日々感じたこと

薬を飲むか飲まないかという選択についての雑感

精神的な不調を抱えて病院へ行くと向精神薬が処方されるが人によってはそれを飲むかどうか迷う人もいるし、またずっと長期にわたって薬を飲んでいるがもう止めたいけどやめて大丈夫か、と悩む人もいる。

 

向精神薬を15年にわたって服用してきた私としては、薬は飲まないに越したことはないが、飲まずに済ませられないようなひどい症状があるのも確かで、それは体験したことの無い人、あるいは周りに経験者がいなくてそれがどの程度危険なのか基準がわからない場合、飲まない、あるいは飲むな、と判断したりアドバイスしたりできない。

 

実際インターネットで見る限り、薬飲んでよくなった、という意見は多くて、私だって急性期症状が再び現れた数年前までは、飲まないに越したことはないが社会生活を送れないのなら飲んでいた方がよい、という判断だった。

 

ところが、急性期症状が現れ、それが薬でも収まらなかったために薬を止めたあと、過去の初発であった急性期症状が自分でポジティブに転換できるようになっていた。数年前の急性期症状は幻聴だけが今でも続いているが、感覚的に昔なら耐えられない妄想幻想、そしてそれに伴う人間関係のトラブル。確かに出てしまうのだが、それで自分が前のようにつぶれることがなくなっていた。

 

薬を飲んでいた時代は何もなかった。ただぼーっと過ごしており、あきらめの境地になっていた。それが人生後半の静かな人生だろうと思っていた。しかるに薬を止めてやはりちょっと急性期みたいになったときにもなんとか乗り越えてきてから、服薬時代が麻痺させられた時代だと気がついた。

 

おとなしく社会の隅で誰にも迷惑をかけず、過ごすこと。そう考えて薬を飲むという選択をしたことは、およそ精神疾患既往者であればだれもが多かれ少なかれ抱く心境だ。それはそれでよいのだが、ただ、この頃こういう選択はミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる「時間泥棒」を連想させるのである。

 

辛いときは薬などやめられないかもしれないように思えるが、むしろ平穏なときにためしにやめてみる方がかなり難しい。ちょっと不調に感じてしまうとやはり薬飲まないとだめかな、という判断になりがちだから。

薬を飲んでいてもチョーつらい。

実は減薬断薬はこの時のほうが覚悟が決まりやすいので案外成功の可能性が大きくなると思う。私もこのチョーつらい時期に断薬したから。

ただし、このチョーつらい、も薬に対する幻想がことごとく破壊されなければかえってもっとつらくなることもある。一種の賭けである。しかし、この賭け、薬を飲んでいることが不自然と感じているならば、挑戦した方がいいのではないかと自分の考えとしてはそう思う。それはやっぱり平穏無事ではあった服薬時代は自分の人生を生きていなかった、と、今薬を飲まないでよろよろしながらでも自分のやりたいことを選択するという信念で過ごしたこの1年半に実感したからだ。それに薬で保たれる平穏もずっと続くとは限らない、ということもわかったし。

 

前に中井久夫先生の本だったかな?どの本なのか忘れてしまったのだが、50代の統合失調症とされた患者さんが入院先で亡くなった時に、その顔がこのつらい人生を終えたという安堵感というか、とにかく神々しい顔だった、というような話を書いているのを読んだことがある。うかつでうぬぼれの強い私はその時に統合失調症になることにも意味があるんだろうみたいに考えていた。でも、今少し考えが違う。

 

その長くはない人生をその患者さんは自分自身のものとして生きることができなかったために苦しかった。だから死ぬときに神々しいまでの安堵感を見せたのだろうと。

 

果たして時間泥棒は誰だろう?銀行に時間を預けませんか?と勧めてくる人は誰なのだろうか?