bluerose’s diary

基礎疾患視点を中心に日々感じたこと

世界の象徴と妄想幻覚

精神病で入院沙汰になるときというのは大抵が自らの妄想で度を失い混乱して周りに迷惑をかけてしまう、いわゆる自傷他害というケースが多いだろう。わたしも御多分に漏れず、自分の幻覚に度を失って自殺未遂を起こして入院となった。

その時の妄想幻覚なのだが、最初に出たのは全世界が自分とつながっている、という恐ろしいほどの身体拡大感覚だった。そこでは世界のすべてが同時に認識でき(るように感じ)自分が意識したところに力が働いてなんらかの動きが起こる、というとてつもないものだったから、最初わけがわからなかったこの感覚が、すぐ、「自分が破壊的なことを考えると世界が破滅する」という感覚になるのにそう時間はかからなかった。それが他害妄想(自分がなにかすると人が死んでしまう)という風に変わったのでたまらない。それはメディアから流されるニュースとリンクして、紛争のニュースを目にするや否や、自分が強烈な緊張と絶望を感じ、心臓が破れるような感覚に耐えられなくなったのである。

 

これが初発の十数年前に起こったものだった。幸い命はとりとめて保護室入院となったわけだが、薬も効いていたせいもあるのだろうか、ここはひどい場所だと思うと同時に、世界から隔絶されてもう自分が好き勝手に考えてもなにも起こらないし、世界からの干渉もない、という感覚もあり、ずいぶん神経が休まった記憶がある。

 

それから十数年経過した。ある人との出会いのあとに急性期のような妄想幻覚が起こった。それが数年前のこと。このときはなんとその相手の方と自分がリンクしているような感覚が起こって、でも、相手の方は同時に自分とは全く違う世界の人間で、例えていうなら鏡の世界にわたしが入り込んでしまった感覚でもあり、あるいは久保田早紀の「異邦人」の歌詞ではないが、ただの通りすがり、という感覚が猛烈に孤独感を呼び起こし、ひどい罪悪感を感じた。なんとなくこの人を傷つけてしまいそうだったから。

そして、この感覚は一時期、相手の方と少し話をしたりしているうちに現実生活のありきたりの、顔見知り同士の感覚になったのだけど、そうやって安心していたら突然また当初出会ったときの感覚が呼び覚まされて、右往左往し、実際わたしはその人に対して常識外れの話を(妄想の中身だけど)してしまって、気まずくなってしまった。

 

2回目のときは全世界が自分とリンクしているという感覚は起らなかったが、世界の象徴がまるで一人の人物に具現化されたように、その方への思慕と敵対感覚、そして自分がまたなにか思うとその人を殺してしまうのではないかという感覚に悩まされた。

 

今こうして自分の妄想幻覚を書いているのは、初発と2回目の発作で世界の象徴感覚が凝縮されてきているのではないか、とこの間気がついたので、文章にまとめながら考えようと思ったからだ。

前に森山公夫の 統合失調症精神分裂病を解く という本を読んだことがある。この中で、初期には身近な環境を背景とした妄想幻覚が、だんだん宇宙感覚にまで拡大するということが書いてあったような覚えがある。うろ覚えだが。

そうなると、私の妄想幻覚発作、この本に書いてあるのと逆の経過をたどっているようにも思える。また現れるかもしれないが、だんだん凝縮されて、普通の人と変わらない程度のものになってゆくのかもしれない。

 

2回目の発作の時、薬を増やしたのだが全くよくならなかったので、それまで十数年飲み続けていた薬も全部やめた。結果は飲んでいるときより生活がしやすくなっている。もちろんそれは客観的に生活が改善されたとは判定されないであろうが、少なくとも薬を止めてから一時期働けたこと、それから集中力が全く失われていたものが、訓練により回復してきて、検定試験に合格したこと。これは薬を飲んでた時には考えられないことであった。

 

自分の体験だけで決めつけられないけれども、妄想幻覚というのは急性的に起こったもの、これは薬を継続的に飲まないでもやがて落ち着くのではないかと考える。突然起こった幻覚による衝動的行動を抑えるために一時的に薬を使うことはあっても、維持のための薬はあまり効果がないような気がする。

そして、長期にわたる精神疾患から抜け出すには、もしかしてこの地獄のような急性期を通り抜けないとならないのではないかと今感じてる。病的にみえるこのことが泥沼からの脱却推進力になるのである。それは一種の賭けではあるけれども、「再発」という名の下で管理しているうちはその人はずっと病者としての人生を送らなければならないとしたら、社会は一人の人間の人生を抹殺しているのではあるまいか。あとは病者の周りの人々が巻き込まれないようにしながら病者の治癒を行うにはどうしたらよいかということが残っているが。