bluerose’s diary

15年間の向精神薬服用生活から断薬しました。

コレステロールって2週間で28も下がるものなの?

今年の1月に血液検査を2回行った。なぜかというと、当初喘息で通ってる病院で食事を変えたことによって、なにか変わったことがあったかどうか、血液検査をしようと予約していた。ところが、年末に精神的な不調でそれが体にまで及んだものだから、喘息の病院での検査日が来る前に、精神科を受診して自分で甲状腺についての血液検査を依頼したからなのだった。

 

具体的には、精神科での血液検査の2週間後に喘息の病院で予約していた血液検査を行った。

 

精神科のほうの結果は検査から2週間後に聞いて、まあなんでもないです、という話だったのでひとまず安心した。その時にコレステロール値が以前検査(この時より2年ほど前に喘息の病院で検査したもの)より下がっていて、

「おお、食事療法が効いてるかな」

とうれしく思ったのを覚えている。ずっとコレステロール値が基準より若干オーバーしていて、2年ほど前の検査でようやく基準値の範囲内に収まったからなのであった。

ちなみに、2年前は216mg/dL 精神科で測ったのは206mg/dLであった。

 

さて、現在喘息の病院へは2か月に1度なので、1月の検査結果を先日聞いたばかりである。

この時のコレステロール値がなんと、178mg/dLだったのである。結果を聞いたとき、ずいぶん下がったな、という印象だったが、精神科の数値を覚えていなかったので、どういうことが考えられるか、お医者さんに聞くことができなかった。

 

ほぼ2週間で28も下がったことになるのだが、これはよくあることなのか、それとも急激な何かが起こったのか、わからず、検索してみたのだが、どうもうまく探し当てることができなかった。

 

体重は毎日測っておらず、この時もどこかで1回測って「やせたな」という印象はあったのだが、よくわからない。

 

食事日記はつけていたので、見ると、2週間の間で変わったことといえば、血液検査の前には昼食に、シリアルを多用していたが、2回目を行う間の2週間は昼食にも玄米を食べていた。大きいところはそのくらいだが、ただ、ストレスで、この2週間に今まで自重してきたチョコレートをドカ食い。このチョコレートだが、高カカオと謳われているものである。ネットではHDLコレステロールを増やす、とかあるけど、これも関係あるのかどうか。

 

もし、この高カカオチョコが効いているとしたら、まあ、続けていくのもよいのかもしれないが、ほどなく、このチョコレートがまた中毒的になってきたので、辞めた。

 

だが、甘いものを食べてしまう癖がここでついてしまい、最近、ずっとかりんとうやら芋けんぴなどを食べてしまっている。体重はそれほど変わらないが、3月に入ってから、PF値が下がってきて、薬を少し増やしてしまっているので、病院帰りにとぼとぼ歩きながら、

「あ~やっぱり甘いもの辞めないといかんね」

とぼんやり思った。

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今回も画像はイメージですw

 

 

とか、思ってるのに…

今日も家族の買ってきたチーズケーキを食べてしまったな。(´・ω・`)

 

何かをやめるとき。

昨日の記事に関連して、思ったことをもう少し。

気が早いけど、逃げるときは全力で - bluerose’s diary

 

せっかく入った職場をやめるということは、よほどのことがない限り迷いがつきものだ。特に新社会人の場合だと、キャリアをこれから積むという時に、やめてしまってよいものなのだろうか?と感じることもあるし、周りに相談しても、やめるよりは続けることを前提として話をすることがほとんどだろう。

 

もちろん、それに越したことはなくて、例えば、私の例だが、若い時に初めて就職したところで、お局様の態度にブチ切れた私は、思い切って上司に訴えたことがある。もちろん、上司はなんとかするからあわてるな、ということをおっしゃってくれて、私もその上司が気にかけてくれる、ということと、自分が自己主張したこと、それから仕事自体がつまらないわけではなかったため、それだけでやめることはなかった。だから、悩んだときは信頼できる人に相談してほしいのである。

 

しかし、反面、仕事が面白くないとか、人間関係でどうも違和感がある、という場合、自分もやめたい本当の、明確な理由づけができないものだから、やっぱり頑張って続けた方がいいよね、となりがちである。それと、これは恐ろしいことなのだが、入った職場と自分のライフスタイルが微妙に違うことがある。どう説明したらよいのかうまく言えないのだが、一日の大半を職場で過ごすことを考えると、その影響は甚大で、うまく説明できない違和感を抱えてしまうことがある。目に見える悩みの影にそういうことが含まれていたならば、対処するのも少し手間取る。

 

 

こういう場合に、この違和感について自分の感覚を確認する必要があるわけである。

 

私が数年前、断薬後に入った職場を数か月でやめたときのことを簡単に書いておこう。

当初、特に問題があったわけではなかったのだが、少し自分の感覚を変えるような生活を始めたときに、まるでそのタイミングに合わせたようにその職場の雰囲気が違うものに感じられるようになった。本当に対人関係にストレスが出てきて、なんでこんなことになってるのか自分でもわけがわからなかった。

 

それで、昨日の記事のように、カードを引いて、対策を練ろうとするのだが、カードの解釈もままならないのは、自分の観念が固定されていたからなのであった。そのうち無意識にでも、質問の仕方を変えると視点が変わることに気がついたのだろう、それをやって、辞めた方がいいのかもしれない、と思うようになったのだ。

 

とはいえ、占いだけでやめるのも流石に憚られる。だから、この職場の細かい違和感に注意を払うことにした。すると、すぐにやめる動機に結びつく出来事が起こり、これを容認したら、自分はなし崩し的に自分の存在をないがしろにされると思った。

 

そのあとで、職場に縛られて悩み続けることより、今まで働けなかったのだからまた一からやり直してもいいのではないか、と思う出来事があって、その日にすぐ辞めた。自分でも驚くほど、すらすらとことが運んでしまったので、もう自分の中で準備はできていたのだろう。

 

後で、その職場と一緒だった人に会う機会があって、こういうことがあった、と話すと「相談してくれればよかったのに」と言われた。

その方はいい人で、ちょっと残念にも思ったのだが、でも、誰にも相談しなかったのは、自分はもう心のどこかでこの職場を続けることを断念していたのだと思う。

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もし、自分自身が元の職場で頑張りたいと心の底で思っていたらたぶん誰かに相談したり、もっと他の職場の人を信頼して相談したりしたのだろうが、その相談したい上の立場の人や、人事の管理に携わっている人をあまり信頼できなかった。

 

ずっと社会で仕事を頑張っている人からみるとあまり感心するようなことではないのだけど、精神疾患にかかった側から見ると、仕事をずっと続けていくうえで、キャリアを積むことが、励みになる人と、そうでない人がいるのではないか、ということも否定できないのである。そうでない人の場合、モデルケースを見つけるのは難しく、自分自身で自分の生き方を見つけ出さなくてはならない。

 

だから、続けるばかりが良いとも限らない、ということを私は知らせたいのである。

 

同じ年齢でもその人生体験の出来事は人によってちがう。年を取って若いころの挑戦や課題を迎える人もいて、確かにそれは一般的な観念からすると未熟で劣っているとみなされるかもしれない。だが、そういう風に見る社会にずっといて、ほかならぬ自分がそういう立場になった場合、私は自分自身がどれほど偏見でものを見ていたのか、そういうことを痛感したし、そこから這い上がる場合、この自分自身の偏見と闘うことを余儀なくされる。

 

あと、自分の感覚を磨いていく、という背景には、純粋に労働環境を選ぶ力を磨くということも含まれる。うかうか入った職場がブラックだった場合、環境を選ぶことができると知らずに、命まで落としてしまうようなことを、これ以上増やしてほしくない。

だから逃げるときは逃げてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気が早いけど、逃げるときは全力で

もう少しすると、新年度が始まり、新しい生活に入るひとが大勢いるわけだけど、一方で、その新しい生活が地獄の様相を呈してきて、でもここでやめると自分はダメ人間、とか考えて、にっちもさっちもいかなくなるケースなどがあり、実際ニュースでそんなのを見聞きしてしまうと、逃げ方教えないといかんよなあ、とか思う。

 

自分が苦しい時、それに立ち向かう方がいいのか、逃げる方がいいのか、判断に迷うことは真面目な人ほど多いのではあるまいか?

 

私もそういう傾向があって、苦しくてやめてみたものの、あれは現実逃避ではなかったのか?と、精神疾患になる前の若いころはそうやって自分をよく責めていた。今思えば現実逃避だろうと、避難だろうと、結局同じことになるだろうな、と思うので、その点についてはもういい。

 

しかし、断薬してから一時期働いて、辞めたくなった時に、さすがに若いころの葛藤を思い出した。

だって、当時は十何年かぶりの職場で、働いてまだ数か月、ここで辞めるとなんかダメ人間になるのでは、とかやっぱり頭の中を去来する不安があるわけで、そんなときに、若いころには使わなかった、占い、というものに相談した。

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画像はイメージですw

 

辞めるまでの1か月ほどに、職場について、なんとか続けていきたいからそのアドバイスを、というような内容で何回か引いていた。そのときの記録を当時やっていたブログに書いていて、その記録を見つけたので読むと、こんなことが書いてあった。

 

あー、職場の人間関係が気になりだした。
いつも自分は毎回なんとなく疎外されてる気分を感じてしまうのだけど、今回もまた現れだした。
まあ、どうこうできるというわけでもないので、カードをひきまくってみると、
メディスンカードではフクロウで、

フクロウは、『見えざるもの』を見る力ゆえに『知恵』の象徴とされる。見る力のない者は『まやかし』に欺かれるが、フクロウには正体が見えている。この能力こそ『知恵』の本質である。
とのこと。


それからドリーンバーチュの一枚引きのところへいくと「状況を正確に見る(ホルス)」のカード。
これ一部抜書きすると

“今のこの状況に対する自分の感情を信用してください。それは正確で根拠のあることだからです。自己不審を手放してください。他の人がどんな意見をしたとしてもです。あなたの霊的な感性は、真実を見る助けとなっています。”


それから観音力カードでは胡蝶の夢
“相応しい場所かどうかを確認しないまま、何処にでも行ってしまうようなところはないでしょうか?”

というメッセージが含まれている。

 

3つのカードが似たような意味なので、うーんと考えてみると、自分はいつも人の意に添おうとするというか、端的にいえば好かれたい、というところがあるんだよな、迎合主義。
おそらくこのパターンもうやめませんか?ていうことなんだろうな。

 しかし、恐ろしい。自分はなんか受け入れられてないなと感じるとたちまちうろたえて仕事が手に付かなくなる。だからこそこれまで気を張って頑張ってきたんだけど、流石に今日はもう心が折れた。
さて、この折れた心、自分はどうするかな?

【追記】
ということで一番気になってる人についてその人から自分はなにをまなぼうとしているのか、という質問をオラクルさんにぶつけてみましたw。
結果は
脱出
あなたの人生はどこかで引っかかっていませんか?
このカードは、今までの不自然な制限から自分自身を解き放つ時がきたと言っています。
ということです。
ここに臆病さが隠されてるんだよなあ。別に他人が悪いということじゃなくて、自分が事なかれ主義。
って、わかってるんだが、堂々巡りだな。

 

最初のフクロウのカードは正体をよく見ろ、ってことなんだけど、当時はわからん。で、オラクルやら観音やらがまるで補完するように自分の感覚を信じろ、とか不自然な、とかそんな言葉が並んでいた。でも、当時はこんなカード引きまくっても、自分臆病でやめたいと思ってる、的解釈をしているのだから、全く固定観念恐るべしだ。

 

そして別の日に

今、向かい合うことをかんがえていたのだけど、逃げるとか避けるとか関わりを持たないようにというような質問でネットでカードを2つひいてみたら、
一枚はメディスンカードでスカンク。そこの解釈では本能に従ったほうがいいこともある。
それからドリーンバーチューのところでは信じる力。天の導きに従え、とある。
て、ことはあながち立ち向かうばかりが能じゃないような気もしてきたな。
自分、すぐなんとかしたいと思うからこじれるのかもしれない。もしかして逃げるが勝ちなのか?

 

 ということを書いていて、ようやく、自分逃げることに焦点を向け始めた、という顛末。

この後辞めてから、自分はさらによい仕事についた、とかそういうのはないので、説得力ないかもしれんがw

でも、この後に資格とりに走って、筆記試験に対するリベンジを遂げてせいせいした。(2006年ころに一度筆記試験ありの就職活動をしたとき、こともあろうに、頭が真っ白になって、解答用紙になにも書けなかったというトラウマがあったのである。当時は服薬中であった。)

そして、一連の仕事に対する自分のやり残し感を払拭し、ようやく自分の身体を優先させて考えることに罪悪感とか覚えなくなったことは大きい。

 

一度しかない人生ならば、幸せだと感じることをやるのが一番いいと思う。

 

何事もあきらめないで取り組むことは大切だけど、自分で変だな、と感じたら、どんな手を使ってでも、それを確認し、だめた、と思ったら全力で逃げる。

変だなと思えないほどまで疲れ切って働けなくなってしまう前に。

 

ほんと、これ、新社会人たちに対して病み上がりの人間が祈っていることです。

 

 

 

 

 

19にまつわる話

今日は3月19日。

特になにか期するところがある日付ではなかった。

 

先ほど、ここには載せてない自分の娯楽ブログで、健康について書かれた他の人のブログ記事をリンクしたのをメモ書きとして記事をアップしたら、

3月19日の19時19分という日付になっていた。

ここで、おおっ!

と思った私は、にわかになんか19に意味でもあるんだろうかと思った。そんなことを思いつつ、タロットを引くと、これが太陽さんのカードで数字では19である。むむ?と思いつつ、欲しいものを今買うべきか後でもいいか、易を立てると、これがまた19番目の卦という。

 

どっひゃ~と思って、取りあえず買い物は即座に注文したが。

 

そういえば、先月の2月24日には、なんかしらん、24にまつわる数字をよく見かけた。

と思い出して、今このブログの記事を調べたら、その日はインナーチャイルドの願いという記事を書いているんだなあ。何かしてほしい事あるのかもしれない。

 

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道化と龍の耳

 

この間、初めての場所へ行った。

どうしようかちょっと迷っていたのだけど、この際だから行ってみようと思ったのだ。

でも、なんとなく落ち着かなくて、当日易なんぞを立ててみたら、また困難の卦が出たりして、やらなきゃよかった、とかへこんだり。

 

そう思いつつも出かけて、用心したおかげか、ちょっとした失敗はあったもののなんとか無事終わった。そのあと帰り道でその場所で一緒だった人と少し話をしたのだが、この方と話をしているときに、自分の道化性というかそういうものを自覚して、帰ってきてから、なぜか

「まあ、今この道化をやりたいんだろうから飽きるまでやるがいいさ」

と思った。

 

そこで、初めて私は、少なくとも人と人との関係性においては自分の本質などと思っているものはその持っている特性の一部にすぎず、これを人によって使い分けているだけなんだな、と気がついた。

そして、人の本質というのは、「無」というものそのものではないかと思った。(空とか虚という言い方も当てはまる)

 

なぜそんなことがすらすらと思い浮かんできたのか?

 

思いつくのは自分がずっとここ数年聞き続けているラジオ番組のような「幻聴たち」の声である。

この声はもしかすると多重人格の一つの表現なのではないか、そして、分離された「わたし」の意識や性格のうち自覚したものが「道化」みたいだなと思った。そしてそれは私自身というには少し他人事のように思えたのである。

 

この幻聴たちは声も老若男女が入交じり、さらに同じ声の持ち主が幼くなったり、オクターブを変えて裏声になったりと、なんだか一見(一聴?)カオスのようでわけがわからなかったのだ。

けれども、ずっと聞かされていくうちに虹のように秩序だった部分が見えてきて、そこに現実の人との出会いで、それが何を意味するかわかったのである。そして、「彼ら」が虹だとすると、聞いている私はプリズムで分離されていない「光」そのものではないだろうか?と感じた。それが上記の人格についての解釈へと繋がっていったように思えるのである。

 

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(拾った画像。こんな感じじゃないけど、なんか笑ったので貼り付けてみた…3/19追記)

 

 

実は、このことがある数日前に、耳をマッサージしていると、ふいに、聞こえない方の耳(この耳は幻聴が聞こえる耳でもあるのだ)たぶに真珠のような光の珠がイメージされた。

以前、初めて幻聴が現れたときには耳の上にまるで耳かけ式の補聴器のように黒い箱がイメージされたが、もうそのようなものはなくなっていた。

 

耳が聞こえないことを漢字で「聾」と書く。

筒井康隆さんがどこかで書いていたがこの字は「龍の耳」と書く。

そして、その時は私を触発してくれた方と龍の話を少しだけしたのであった。

 

ところで、道化のことだが、どうやらこの性格は「インナーチャイルド」にも関係しているらしく、自分はこの部分を出したいのだけど、過去にこれをやっていつも最後に傷ついていたかもしれない、と思った。そして傷つけているのは他人ではなく、その振る舞いを心のどこかで苦々しく思っている私なのであった。

 

 

ただ、これがわかったからといって、にわかに生活が変わるわけでもないけど、まあ、無理しないでいこうと思います。

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“ありとあらゆる手段を使って自分を救済せよ”

向精神薬から離れてそろそろ2年半。
この間順調に回復しているかというと、必ずしもそういうことはなく、大きなところでは年末から年明けにかけて起こった頭痛幻聴とそれに伴う気分の悪化、そして、普段でも時に、何かしらん、落ち込んだり、不安になったり、緊張したりすることがある。

 

昔なら、こういう気分の変調のとき、薬を飲んでやり過ごしていたりしたのだけど、今そういう場合どうしているかというと、気分転換の方法、癒しの方法など、自分の知っているもの、学んだものなどをとにかく使い倒している。

 

これは一般的な人が行っていることだろう。

ところが、病気になる前のわたしときたら、こういう気分転換とか癒しというものについてどこか侮っているところがあって、こういう手段を使ったら、それにずっと頼らなくてはならなくなるから、つらくても我慢しよう、などというとんでもないドMだったのである。

 

もちろん、当時はそれが普通だと思っているからそんなことには気がつかず、今思えば、という話。

 

タイトルに書いた“ありとあらゆる手段を使って自分を救済せよ”というフレーズは去年だったか、一昨年だったか、ほとんどボランティア的なメールセッションを受けたときに、そのセラピストさんの文章を読んでいるうちに浮かんできた言葉だ。

 

メールの中身は「自分を大切にしてね」みたいな文章なのだが、そのためにできることはなんでもしよう、という感じのことが書かれていて、それを読んで自分は自分を大切にする、ということを、わがままではないか、と思い込んでいたことと、既存の医療だけが病気を治すことだ、と思い込んでいたことに気がついたのである。

 

代替療法やいろんな生活習慣の見直し、気分転換の方法、そしてヒーリングなどの目に見えないものを使ったワークの体験など、そのメールを読んでから自分なりにやってきた。

 

最初は、「こんなことやってて、効果があるのかなあ」などと思っていたけれども、それらのことを行っていくうちに、自分なりに忍耐力がついてきたようで、先に述べた気分の変調も薬を飲んでいるときには飲まないと治らない、と思い込んでいたのだが、現在は、よほどのことがない限り、それほど長い時間続くわけではなくて、身体に心地よいことをやっていくうちに気分がよくなる、ということもわかってきた。

 

で、思い出したのは、10代から20代のころ、よく頭痛がしていたのだけど、30分だけ寝るとか、風呂に入って温まると、頭痛が治っていたこと。

今はあまり頭痛はないけれども、ストレスが身体的なものから緊張不安といった精神的なものに変化しているだけなのかもしれない、ということだ。

 

自分の気質によるものなのか、長じるにつれて、ストレスによる不調が変化してくるものなのかはわからない。

 

断薬してよかったな、と思う時は、こういうことに気がついたときかな。ずっと薬を服用し続けていたら、こんな自分の身体の変化に気がつくことなく、頼りっぱなしになっていたかもしれない。

 

治す方法にあまり頼りたくないからと思っていた自分が15年も薬に頼ってしまうような状況になったという皮肉。

 

気合で治すのは、ほどほどに。

と若い自分に教えてあげたいよ。

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お試しか?

私は、ある特定のことについて何かしらの困惑を抱えていることに気がついた。

自分はそんなものはそれほどないと思い込んでいたのだけど、よくよく考えるとその事柄に対して、真っ向から取り組んだことがなくて、無意識に流していたのではないかと思ったのだ。

 

それで、常識的に考えると、自分は結構それで自分を制約しているかもしれない、と思った。もちろん、私が思い込んでいる観念は、他の人も結構抱えている問題だし、それほど責められるようなものではないのだが、気になりだしてきたので、少しこのことについて考えてみようと、思った矢先。

 

まるで「お試し?」と思うような出来事が起こった。

それは自分に若干関係するけれどもあまりタッチしていないことについて時間がとれるか?と聞かれたことから始まる。

私はその時期、集中していたいことがあるので、一瞬困ったのだが、時間を取ってと指示された時期は時間が空いていたし、そういう用事は自分も関係しているからやらなくてはならないのだろうと当たり前に思って、承諾の返事をした。

 

して、返事をしてから、もう一人同じ用事の人がいたのだが、その人はどうしたのだろう?と思って聞くと、「時間取りたくない」と聞いたので、自分はまた一瞬絶句した。

 

 

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…自分時間とらなくてもいいのかな…

 

その用事は通常関わっている人は一緒に行うべきものだけど、一応例外も認められている。だからどうなるかわからないけど。

 

それよりも、自分はそういう用事があった時に行かなくてはならないと思っていてほとんど条件反射的に「いえす」とか言ってしまったのだが、「のう」という選択肢もあったんだな、と気がつかされた。

 

で、思い出したのは、今回とは別の話だけど、やはり私は行かなくてはならないし、実際ほとんどの人は行ったとある用事のことだ。そこで私は「行かなかった」とこともなげにいう人を見つけて、結構衝撃を受けたのだった。それで自分はかなり考え込んでしまったことがある。

 

二つの用事はまったく違うようで、実は同じ性質のものだ。

既にあなたは参加していて、利益を得る可能性を与えている。だからこうしてほしい。

という無言の圧力、というと人聞き悪いかもしれないけど、要するに自分がその人たちの要請に反して安全圏から外れてしまったらどうしよう、という恐れだ。

 

まあ、今回の場合は、要請してきた人も詳しいことはあまりわからないようで、私と同じように考えていたから、私もちょっと自分のことは置いといて、やらなくてはならんのだろうと思った。それでも、自分のことを優先して「やりたくない」と言って交渉することは可能なのである。

 

こうしてみると、私は如何に自分の気持ちをよそに生活してきたのだろう、と感じる。

 

古い流行り言葉だけど

「NO」と言える、なんとか

ということについて少し意識的になってみよう。