bluerose’s diary

基礎疾患視点を中心に日々感じたこと

19にまつわる話

今日は3月19日。

特になにか期するところがある日付ではなかった。

 

先ほど、ここには載せてない自分の娯楽ブログで、健康について書かれた他の人のブログ記事をリンクしたのをメモ書きとして記事をアップしたら、

3月19日の19時19分という日付になっていた。

ここで、おおっ!

と思った私は、にわかになんか19に意味でもあるんだろうかと思った。そんなことを思いつつ、タロットを引くと、これが太陽さんのカードで数字では19である。むむ?と思いつつ、欲しいものを今買うべきか後でもいいか、易を立てると、これがまた19番目の卦という。

 

どっひゃ~と思って、取りあえず買い物は即座に注文したが。

 

そういえば、先月の2月24日には、なんかしらん、24にまつわる数字をよく見かけた。

と思い出して、今このブログの記事を調べたら、その日はインナーチャイルドの願いという記事を書いているんだなあ。何かしてほしい事あるのかもしれない。

 

f:id:offkey:20170319211029j:plain

 

 

道化と龍の耳

 

この間、初めての場所へ行った。

どうしようかちょっと迷っていたのだけど、この際だから行ってみようと思ったのだ。

でも、なんとなく落ち着かなくて、当日易なんぞを立ててみたら、また困難の卦が出たりして、やらなきゃよかった、とかへこんだり。

 

そう思いつつも出かけて、用心したおかげか、ちょっとした失敗はあったもののなんとか無事終わった。そのあと帰り道でその場所で一緒だった人と少し話をしたのだが、この方と話をしているときに、自分の道化性というかそういうものを自覚して、帰ってきてから、なぜか

「まあ、今この道化をやりたいんだろうから飽きるまでやるがいいさ」

と思った。

 

そこで、初めて私は、少なくとも人と人との関係性においては自分の本質などと思っているものはその持っている特性の一部にすぎず、これを人によって使い分けているだけなんだな、と気がついた。

そして、人の本質というのは、「無」というものそのものではないかと思った。(空とか虚という言い方も当てはまる)

 

なぜそんなことがすらすらと思い浮かんできたのか?

 

思いつくのは自分がずっとここ数年聞き続けているラジオ番組のような「幻聴たち」の声である。

この声はもしかすると多重人格の一つの表現なのではないか、そして、分離された「わたし」の意識や性格のうち自覚したものが「道化」みたいだなと思った。そしてそれは私自身というには少し他人事のように思えたのである。

 

この幻聴たちは声も老若男女が入交じり、さらに同じ声の持ち主が幼くなったり、オクターブを変えて裏声になったりと、なんだか一見(一聴?)カオスのようでわけがわからなかったのだ。

けれども、ずっと聞かされていくうちに虹のように秩序だった部分が見えてきて、そこに現実の人との出会いで、それが何を意味するかわかったのである。そして、「彼ら」が虹だとすると、聞いている私はプリズムで分離されていない「光」そのものではないだろうか?と感じた。それが上記の人格についての解釈へと繋がっていったように思えるのである。

 

f:id:offkey:20170319193730j:plain

(拾った画像。こんな感じじゃないけど、なんか笑ったので貼り付けてみた…3/19追記)

 

 

実は、このことがある数日前に、耳をマッサージしていると、ふいに、聞こえない方の耳(この耳は幻聴が聞こえる耳でもあるのだ)たぶに真珠のような光の珠がイメージされた。

以前、初めて幻聴が現れたときには耳の上にまるで耳かけ式の補聴器のように黒い箱がイメージされたが、もうそのようなものはなくなっていた。

 

耳が聞こえないことを漢字で「聾」と書く。

筒井康隆さんがどこかで書いていたがこの字は「龍の耳」と書く。

そして、その時は私を触発してくれた方と龍の話を少しだけしたのであった。

 

ところで、道化のことだが、どうやらこの性格は「インナーチャイルド」にも関係しているらしく、自分はこの部分を出したいのだけど、過去にこれをやっていつも最後に傷ついていたかもしれない、と思った。そして傷つけているのは他人ではなく、その振る舞いを心のどこかで苦々しく思っている私なのであった。

 

 

ただ、これがわかったからといって、にわかに生活が変わるわけでもないけど、まあ、無理しないでいこうと思います。

f:id:offkey:20170316161827j:plain

 

 

 

 

“ありとあらゆる手段を使って自分を救済せよ”

向精神薬から離れてそろそろ2年半。
この間順調に回復しているかというと、必ずしもそういうことはなく、大きなところでは年末から年明けにかけて起こった頭痛幻聴とそれに伴う気分の悪化、そして、普段でも時に、何かしらん、落ち込んだり、不安になったり、緊張したりすることがある。

 

昔なら、こういう気分の変調のとき、薬を飲んでやり過ごしていたりしたのだけど、今そういう場合どうしているかというと、気分転換の方法、癒しの方法など、自分の知っているもの、学んだものなどをとにかく使い倒している。

 

これは一般的な人が行っていることだろう。

ところが、病気になる前のわたしときたら、こういう気分転換とか癒しというものについてどこか侮っているところがあって、こういう手段を使ったら、それにずっと頼らなくてはならなくなるから、つらくても我慢しよう、などというとんでもないドMだったのである。

 

もちろん、当時はそれが普通だと思っているからそんなことには気がつかず、今思えば、という話。

 

タイトルに書いた“ありとあらゆる手段を使って自分を救済せよ”というフレーズは去年だったか、一昨年だったか、ほとんどボランティア的なメールセッションを受けたときに、そのセラピストさんの文章を読んでいるうちに浮かんできた言葉だ。

 

メールの中身は「自分を大切にしてね」みたいな文章なのだが、そのためにできることはなんでもしよう、という感じのことが書かれていて、それを読んで自分は自分を大切にする、ということを、わがままではないか、と思い込んでいたことと、既存の医療だけが病気を治すことだ、と思い込んでいたことに気がついたのである。

 

代替療法やいろんな生活習慣の見直し、気分転換の方法、そしてヒーリングなどの目に見えないものを使ったワークの体験など、そのメールを読んでから自分なりにやってきた。

 

最初は、「こんなことやってて、効果があるのかなあ」などと思っていたけれども、それらのことを行っていくうちに、自分なりに忍耐力がついてきたようで、先に述べた気分の変調も薬を飲んでいるときには飲まないと治らない、と思い込んでいたのだが、現在は、よほどのことがない限り、それほど長い時間続くわけではなくて、身体に心地よいことをやっていくうちに気分がよくなる、ということもわかってきた。

 

で、思い出したのは、10代から20代のころ、よく頭痛がしていたのだけど、30分だけ寝るとか、風呂に入って温まると、頭痛が治っていたこと。

今はあまり頭痛はないけれども、ストレスが身体的なものから緊張不安といった精神的なものに変化しているだけなのかもしれない、ということだ。

 

自分の気質によるものなのか、長じるにつれて、ストレスによる不調が変化してくるものなのかはわからない。

 

断薬してよかったな、と思う時は、こういうことに気がついたときかな。ずっと薬を服用し続けていたら、こんな自分の身体の変化に気がつくことなく、頼りっぱなしになっていたかもしれない。

 

治す方法にあまり頼りたくないからと思っていた自分が15年も薬に頼ってしまうような状況になったという皮肉。

 

気合で治すのは、ほどほどに。

と若い自分に教えてあげたいよ。

f:id:offkey:20170310213406j:plain

お試しか?

私は、ある特定のことについて何かしらの困惑を抱えていることに気がついた。

自分はそんなものはそれほどないと思い込んでいたのだけど、よくよく考えるとその事柄に対して、真っ向から取り組んだことがなくて、無意識に流していたのではないかと思ったのだ。

 

それで、常識的に考えると、自分は結構それで自分を制約しているかもしれない、と思った。もちろん、私が思い込んでいる観念は、他の人も結構抱えている問題だし、それほど責められるようなものではないのだが、気になりだしてきたので、少しこのことについて考えてみようと、思った矢先。

 

まるで「お試し?」と思うような出来事が起こった。

それは自分に若干関係するけれどもあまりタッチしていないことについて時間がとれるか?と聞かれたことから始まる。

私はその時期、集中していたいことがあるので、一瞬困ったのだが、時間を取ってと指示された時期は時間が空いていたし、そういう用事は自分も関係しているからやらなくてはならないのだろうと当たり前に思って、承諾の返事をした。

 

して、返事をしてから、もう一人同じ用事の人がいたのだが、その人はどうしたのだろう?と思って聞くと、「時間取りたくない」と聞いたので、自分はまた一瞬絶句した。

 

 

f:id:offkey:20170305203159j:plain

…自分時間とらなくてもいいのかな…

 

その用事は通常関わっている人は一緒に行うべきものだけど、一応例外も認められている。だからどうなるかわからないけど。

 

それよりも、自分はそういう用事があった時に行かなくてはならないと思っていてほとんど条件反射的に「いえす」とか言ってしまったのだが、「のう」という選択肢もあったんだな、と気がつかされた。

 

で、思い出したのは、今回とは別の話だけど、やはり私は行かなくてはならないし、実際ほとんどの人は行ったとある用事のことだ。そこで私は「行かなかった」とこともなげにいう人を見つけて、結構衝撃を受けたのだった。それで自分はかなり考え込んでしまったことがある。

 

二つの用事はまったく違うようで、実は同じ性質のものだ。

既にあなたは参加していて、利益を得る可能性を与えている。だからこうしてほしい。

という無言の圧力、というと人聞き悪いかもしれないけど、要するに自分がその人たちの要請に反して安全圏から外れてしまったらどうしよう、という恐れだ。

 

まあ、今回の場合は、要請してきた人も詳しいことはあまりわからないようで、私と同じように考えていたから、私もちょっと自分のことは置いといて、やらなくてはならんのだろうと思った。それでも、自分のことを優先して「やりたくない」と言って交渉することは可能なのである。

 

こうしてみると、私は如何に自分の気持ちをよそに生活してきたのだろう、と感じる。

 

古い流行り言葉だけど

「NO」と言える、なんとか

ということについて少し意識的になってみよう。

 

 

 

インナーチャイルドの願い

最近、スピリチュアルなことを扱っているところを色々閲覧していて、とある本を見つけた。

ルイーズヘイという人の書いた「鏡のワークブック」という本だ。

 

ルイーズ・ヘイの鏡のワークブック

ルイーズ・ヘイの鏡のワークブック

  • 作者: ルイーズ・ヘイ,宇佐和通
  • 出版社/メーカー: 株式会社JMA・アソシエイツ(ステップワークス事業部)
  • 発売日: 2016/12/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 アメリカで有名な自己啓発やスピリチュアルの人々は彼女の出版社ヘイハウスから本を出してるらしい。日本ではどのくらい知名度があるのかわからないが、かなり高名な方らしい。

 

この方が今紹介した本のためのワークショップをオンライン上でやっている、というバナーを見かけて、ためしにそこにあった試し読みを閲覧した。

すると、私は最初のページを読むや否や、思わず感涙してしまったのである。

それで、これはちょっとやってみなくてはなるまい、と感じて本を購入し21日間のプログラムを全うした。

 

この本は私にとって、思いがけない自分の忘れられた記憶を呼び戻した。

 

インナーチャイルドについてのワークがあり、私はこれにかなり抵抗を感じた。実をいうとインナーチャイルドぴんとこなかったのである。しかし、ルイーズさんは大人になるとインナーチャイルドを無視するか見下すようになる、と書いていたので、それならば、と抵抗しつつワークを進めていった。

 

左手で自分の姿を書くワークがあって、それを行ってみた。

f:id:offkey:20170224211324j:plain

 

描き終わって、この自分の顔が

「なんだかマイケルジャクソンに似てないか?」

と思って、それはなぜなんだろうと不思議に思った。

なぜなら、私は特に彼のファンでもないし、かといってアンチでもない。超有名スターだなーという感想しかもってなかったので、左手で書くということの不思議さを感じたのである。

 

そのあと、この絵を見ながら、ワークブックにある質問に自分で書き込んでいくわけだが、この時もマイケルに似ていると思った理由は思いつかなかった。

これが8日目のワークである。

 

描いた姿を本に挟めたまま、着実にページを進めていき、最終日。

この日のワークでは「前のワークで記録していたことを読み返してみましょう」という項目があって、それを行って、8日目にきて、文章を読み、この絵を見たときに、なぜマイケルに似ていると思ったのかようやく理由がわかった。

 

私は、幼いころに容姿コンプレックスを持っていたのである。

大抵の女性は多かれ少なかれそれを持っているだろうけれども、私の場合、子供のころ日焼けしていて、色黒だった。そしてそれがたまらなく嫌でしょうがなかった。しかし、子供のころの私はそれを言語化して自覚できなかったから、なにかしらん、屈折した思いがあって、自分は醜い、という意識がどこかにあったらしい。

 

いや、自分でもびっくりだけど、確かにそうなんだわ。他にもマイケルみたいに見えた理由はあるのだけど、一番大きいのは肌の色に関してである。

 

現在は年をとったせいもあって、あまり肌の色は気にならなくなったが、それ以外の容姿に関しての自分の思い込みとか概念とか信念とか、いっぱい出てきて、それが私の中でかなりな分量になっているようだ。

 

若いころ、私は容姿より自分の中身を気にしていた。どうして自分はこうも性格が好きじゃないんだろう、みたいなこと。

もしかすると、それは子供時代に出来上がった容姿コンプレックスが無意識にあって、それが自分の精神に影響して、そんな風に思ったのかもしれない。

実際、私は長じてから容姿による不都合や嫌な思いはほとんどしていないのである。

あるのはもっぱら自分の性格的なところによるものだった。

 

今、それで美容とかアクセサリーとか少し見ているのだけど、アクセサリーなどは

「こんなに美しいものがあったんだなあ~」となんかすごく新鮮な気持ちで見ている。

そりゃ、多くの女性がプレゼントにねだるのも無理はないなあ、と。

 

そして、スピリチュアル好きに女性が多いのもわかる。

パワーストーンとか美しいお守りとか、美しい文様とか、見ていて飽きない。

少なくとも自分はそう。それに、スピリチュアルで女性が願うことって結局どの分野であれ

「美しくなりたい」

ということだから余計に。

 

美しいものがもっと増えるといいな、なんて思う。たぶん幼いころの自分の願いはこれだったのだろう。

 

f:id:offkey:20170224220614j:plain

 

 

精神病の初発で何が起こったのかようやく理解できた

精神病の急性期発作が初めてあったときに、いろんな妄想があったのだが、その中で

「身体が裏返る感覚」

から

「世界中と自分が繋がってしまった」

という恐ろしいほどの感覚に見舞われ、そこから自分は自分が何か考えると人が死ぬ、という妄想は一番恐ろしくて、ほぼパニック状態になっていた。

 

後からこの「世界中と繋がってしまって、自分はどうしようもなくなった」という感覚が解せなくて、折に触れては考え、バガヴァットギーターに似たようなものがあったとか調べていたのだが。

過去記事:自分の変性意識を検証する(文学幻想精神世界より) - bluerose’s diary

 

ネット上で精神科関係のことをやりとりしている場所があって、そこで引き寄せの法則の話がでた。

で、私は自分の経験からコメントにこういうことを何気なく書き込んだ。

これは、奇妙に聞こえるかもしれませんが、
実は、私が最初に精神病の急性期になったときに、
「体が裏返って、自分の体の中と世界が境界なしに繋がる感覚」
から
「世界中の情報とつながってしまった」
ようなパニック状態になりまして、自分がうかつに動くと(考えると)人が死ぬ、という妄想があったのですよ。

それで、最近注目されるようになった「引き寄せの法則」が
読んでいると、なんか似てるなあ、と思うわけです。

精神病がネガティブの極致に追いやられるというたとえだとしたら、
引き寄せの法則はそれをポジティブに主体的に行う、という感じでしょうか。

私の場合、病気でない時は懐疑主義なので、発作時にはその懐疑主義を打ち壊すような感覚が起こるのだと自分で解釈しています。

だから、今の私は本当に、おっしゃる通り、意志をもって自分をポジティブに信じることなのだと思うのです。

 引用部分はコメントの一部。

 

これを書いてから、なんかもやもや、というよりは何か閃きに近いような感覚がしていて家事をしながらその感覚を追っていたが、突然気がついた。

私は当時人生についてかなり絶望していて、絶望する要因や絶望しかない感情のことばかり考えていた。しかし、そんなことばかり考えているのも建設的ではないので感情を抑えることで知的に現状分析と思い込んでいたのだが、とうとう耐えられなくなって感情を解放しだしたときに、

「それ以上感情を伴った破壊的な考えを続けることは文字通り殺人的行いだ」

という自分の中の何か補償的なものが働き出して、「ものを考えると人が死ぬ」という妄想につながったのではないのだろうか、という気づきである。

 

私は当時自分と世界は取り立てて繋がっているとも思わなかったし、むしろ無関係に世界は存在しているとすら考えていた。だからこそ虚無的な部分がどこかにあった。そして、そういう考えやものの見方は私にとって、実はじわじわと私の存在自体を蝕むような毒だったのだろう。

 

その反動があまりにも大きくて、自分では持ちこたえられなくなって精神科に担ぎ込まれたわけだ。そして一命はとりとめた。

 

破壊的な精神崩壊の影に、生き物としての私が見せた働き。

このことに気がついて、妄想の一つが腑に落ちた。

 

 

ーーーーーーーーーー

これは、自分一人で考えたり、こうやって一人で文章に書き出してみても気がつかなかったことである。

私は、こうして人とのやりとりで気がつけたこと。

これをありがたいと思った。

 

もっと率直に自分の考えたことや感じたことをシェアするという大切さ。

f:id:offkey:20170216213622j:plain

精神分裂病の言語感覚

この間、思ってもみなかった精神病の急性期発作にかなり焦ったが、おかげさまでだいぶ回復してきた。

過去記事:検査づくし

 

この時の発作だが、3年ほど前に経験して断薬のきっかけとなった幻聴を中心とした妄想と身体感覚の異常の続きみたいな顛末だったので、人間の妄想というのはそうそうでたらめではなくて、その人自身と密接に関連し合っているのだなあ、と変に感心してしまった。

 

さて、私の場合、こういう幻聴があるときは、不思議な言語感覚になる。変な造語がたくさん聞こえてくるのである。今はほとんど忘れてしまっているが、発作時はそういう造語がたくさん聞こえてくるので本当に自分じゃないものがしゃべっているとしか思えなくなるのだ。

 

不思議なことはまだあって、そういう造語だと思ったものが、ふとしたきっかけで同じ言葉を見つけることがある。ひとつ覚えているものを披露したい。

 

私が混乱する精神状態の中で幻聴たち(複数の声)は「コンビニ コンビニ」と唱え、その中に「トンビに」という声が聞こえる。このトンビに、というのは願いごとをトンビに向かって投げることらしいのだ。さて、一定数聞こえたこれらの単語の後に

「バビントン バビントン」

と幻聴たちは歌いだす。そうすると願い事をかなえてくれるゴーレムのような大きなものが起き上がって、人々を救済するのだそうだ。

 

まあ、ありがちな妄想だけど、

「バビントン」

って聞いたことがなくて、変な言葉だなあ、と思っていた。けれどもなんか妙に調子が良くて、リズムと調子をつけたその唱え方を自分もいつの間にか鼻歌のように心の中で唱えていたのは、なんの洗脳かw

 

そのバビントンを、あるときネットで検索したら、いろんなものがたくさんあった。なので造語というよりはどこかで聞いたとか、もっとオカルト的にいえば、集合意識へのアクセス?みたいな話なのかもしれない。

基本は人名のようなので、いろいろ使われていても不思議ではない。キャプテン翼のキャラとか紅茶関連とか。

ただ、ちょっとびっくりしたのが「バビントン石」という鉱物。

別に鉱物があるということに驚いたわけではなくて、その時の妄想のテーマが「イシ」という言葉に対するものだったのだ。

イシという発音には「意志」「医師」「縊死」と3種類ほどあって、このどれもが自分の中で重くのしかかっている言葉だったりする。そういう発音にからめて「石」の中に「バビントン石」という名前の鉱物があること、この符合になんというかちょっとした神秘を感じてしまうのだった。

 

統合失調症の妄想や幻覚に魅了され自ら取り込まれてしまう心理ってこういう神秘にあるんだよなあ、って思いながら。

f:id:offkey:20170201133501j:plain

 

-----------------------------------------------------

ジョイスというアイルランド出身の作家がいる。娘は精神分裂病になってしまったが、彼女が表現する独創的な言葉にジョイス自身がほれ込んでいたらしい。そして娘の才能だと言っていたのだが、ユングは「娘さんは病気です」としっかり釘を刺していたという話を思い出す。ジョイスと違って意識的に独創的な言葉を作り出し表現できない娘さんは病気なのだと。

-----------------------------------------------------