bluerose’s diary

精神疾患のこと、その他持病についても少し

言葉は一体どのくらいたくさんの意味を持つのだろう?

先日、とある場所で雑談を聞くともなしに聞いていたときのことである。

ある人が、家族の話をしていて

「私の言うこと聞いてくれない」

という言い方をしていた。

 

あ~、話聞かない人なのかな、その人の家族って、

みたいなことをぼんやり思っていた、その時。

 

「家族が私の言ったことをやってくれない」

という意味が浮上してきた。

 

すなわち

「私の言うこと聞いてくれない」

という時、

どういう基準で話を聞いてくれたかどうかという判断をするんだろう、という疑問がちょっと湧いてきたのである。

 

自分の言ったことに相手が相槌を打てば聞いてくれたことになる、

というレベルから

自分の言ったことをやらなければ、聞いてくれたことにならない。

というレベルまで。

 

大抵は話の流れで、そのあたりのことを判断しながら会話は進んでいくのだろうけど、最近私はそのあたりの判断がちょっとわからなくなっている。

 

それで、なんかちょっと自分の感じたことを人に言うのが怖くなっている。

誤解ってそういう食い違いから生まれるから。

 

 

自閉症とか発達障害のことはよくわからないけれども、「表面的なことだけで判断して行間が読めない」という類の不具合をもつ人、もしかしたら、話を聞いたときに、上記のようなたくさんのレベルの解釈がいっぺんに出てくるものだからフリーズするのではないだろうか?だから行間でなく表面的な言葉で判断することがあるのかもしれない。

 

へこむこと

自分が怠慢だといわれること

自分が天狗だといわれること

自分が低い波動を出してるといわれること

だんだんむかつくことになってきてる。

自分が悪いといわれること

自分がジャッジメントしているといわれること

説教されること

自分はこうやったとありきたりの常識をいわれること

イライラすること

自分が本で読んだことなどでもううんざりしていることをいわれること

びくびくすること

手抜きだなあと思ってるときに母に名前呼ばれること

わかってるふりをして去勢をはっていること

拒絶したくなること

特別なことやってないのにほめられること

本来は自分でやれるのにたまたま私がやったことで結果的にそうなったことに関して過度に感謝されること

違和感は岩感?ごめん、過度に意味付けしていると頭や顔が熱くなってくる。

感謝されるかなあと思って親切にしたことがそれほどでないときはがっかりして自分を呪いたくなる。

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“食べ過ぎは毒になります”

コインの裏側

ひきこもりの話題が注目を集めている。

ひきこもりは共同体から身を隠している状態だけど、社会復帰、ということに焦点を当てる時、わたしはつい別のことを考えてしまう。

 

日本における、過労死のこと、そして自殺の多さのことである。

この人たちが、一時的にでも共同体を抜けて身を隠したら、助かった命なんじゃないかな、とかつい思ってしまうのだ。

 

ケン・ウィルバーがどこかで書いてたけど、こんな趣旨の文章を昔読んで思い出したよ。

“社会適応をさせるには、例えば精神安定剤などを飲ませればそれは可能なことであるけれども、その社会が社会適応するに値するものかどうかはまた別の話。”

 

 

まあ、ひきこもりみたいな人間の述懐でございました。

ナイーブだとは思うけどさ

さっき、お経の練習しようと思って、動画を見てたら、某家族に

「バーチャルお経でいいんじゃないの」

とか言われて、えらくがっかりした。

ほとけさまのためというより、自分が声を出したいためにお経を読んでるだけなんだけど、某家族はきっと別なこと思ったのだろう。

 

それにしたって、なんだってそんなこと言われなくちゃならないんだ、とかちょっと不満だ。

 

こういう何気ないからかいにもにた言葉は親密さの一種だとはいうけれどさ、でも私はちょっとハラスメントにも似た不快さを感じてしまった。

 

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“失われた時を求めて”という感覚

実は父が今年亡くなって、今もいろいろと忙しい。

慣れない手続きや人とのやりとりであまり落ち着かない。

それでもおおよその目途がつき、少し物事が進んでほっとしたところ。

 

 

先ほど父の遺したものを整理しながら数をゆっくり数えていた。

そうやってゆっくり数を数えているうちに、幼いころデパートの催事場で自分の背丈ほどもある平台の合間を親に連れられて歩いているわたしを思い出した。

幼い私は平台の縁を見ながら、なぜか数を数えているのである。そうして100まで数え上げると、

「こんなに数を数えた」

とうれしくなって、さらに101から続けていく。そのうちどこまで数えたのかわからなくなるが、デパートの催事場の平台や、そこに載せられている商品の山や、見ている大人たちの腰やそういったものはなくならず目の前にあり、わたしは次々と通り抜けていく、そんな光景。

 

そして、わたしは遺した父のものに思いをはせ、涙が流れ出すころ、

茶の間のテレビではいつの間にか中島みゆきの「わかれうた」が流れていた。

 

言語はグリッド状に広がり…

今朝、とりとめもなく夢のことを考えているうちに、ミツバチのことを連想した。

そして、そこから、数年前に見た、夢うつつの中での「888」という文字列のことを思いだし、なんとなく8の3乗、すなわち8×8×8というイメージが浮かんできた。

それで計算すると512、すなわち本日5月12日と同じ数列になる。

 

 

普段日常生活において時間とか日付とかもう当たり前のように覚えていて覚えていることすら意識せずに暮らしているのが一般的な人々である。

 

ところが、今私は少し敏感で不安定な精神状況なのであるが、こういう時は意味がよくわからない連想が次々とやってきては私の神経に負担をかける。

 

そんなちょっと苦しい中、ある時間一瞬、まるで何かを教えるような、そんな言語の流れがやってくることがあって、上記に説明したのもそんな流れだ。

 

日付とか時間をわたしたちは計画を立てたり、他の人と行動を合わせたりするために使うことがほとんどだけど、別の意識ではこんな言葉遊びのような使い方をしている部分があって、そういうものを思いがけず知るとなんだか、人間の意識の不可解な神秘に接したような気になる。

“2018年3月初めの夢”

電子書籍を作成できるサイトがあって、今日そのサイトの閉鎖を知らせるメールが届いた。数年前に登録して、自分の書いたものを少しまとめていたりした電子書籍が何冊かあって、それのダウンロードをしながら書いたものを読んでいた。

 

一番最後に書いた電子書籍の記事が去年の3月。そのあとは書いていない。

この記事は書いたけど非公開のままになっていたので、改めて転記しておこうと思う。

 

 

2014年から社会復帰しようと、アルバイトに出たり、勉強して資格を取ったり、習い事したりして頑張ってきたけど、とうとう電池切れにて、2017年後半には、心身共にボロボロな状態になってしまった。

 

そして、2018年になって、この状態ではいけないと、社会復帰に向けての活動を停止し、心身の癒しを優先させ始めて、2か月。

今朝の夢はこんな夢だった。

 

妹が絞られてしわしわのコートを着ており、私がそれを言うと、妹は怒り出す。

どこかの建物、人が何人かいて、私は窓の外にパノラマ状に見える海を眺めている。

海は不思議な丸い水の球が浮上しているのか落ちているのか、そんな感じで一面に見え、またその水の球にはろうそくのような小さな炎が燃えている。

 

 

見た感じはあまり不吉でもなく、なんだか随分不思議な光景に見えた。

夢占いのサイトでいくつかキーワードを調べてみて、自分なりの解釈は以下の通り。

 

 

海を眺める夢は、自分自身を見直すとき。ぶれやすさや、他人の言葉に左右されやすいなど、自分軸がしっかりしていなくて、気分のむらから周囲に迷惑をかけたりしていなかったか?

一方で、炎の夢は、浄化の夢であり、これまでの停滞や運の悪さを焼き払ってくれる。

 

 

前日に、経済的なことや世間体のために義理を立ててることで、心が苦しんでいることがあるとしたらそれをやめるとなにが起こるだろうか?という問いを手帳に書き記した。

関連性があると感じるのはこの手帳の言葉のような気がする。

 

この記事の中で自分の夢の解釈を試みているが、自分の至らなかったことは言及されているものの、「絞られてしわしわになったコート」のところを見事に飛ばしていて、今読んでちょっとため息が出てしまった。

解釈を考えるまでもなく、自分自身を厳しく追い込んだということがこのコートのありように現れている。けれどもそれを着ている妹(たぶん影の世間体を気にしている私に似ている)はそれを認めたくなくて怒っているようだ。

 

あの頃はいろいろ大変だったなあ…