bluerose’s diary

精神疾患のこと、その他持病についても少し

『3.11』直後のメルマガバックナンバーを読む

とあるメルマガは10年以上続いていて、バックナンバーを配信してくれるサービスもあるので、それを毎日読んでいるんだけど、今朝は2011年3月23日配信のバックナンバーだった。

 

ヒーリング関係のメルマガだから、当然あの災害について、緊急の情報が書き込まれている。もう少しで7年が経つんだなあ、と感慨深く読んでいたのだが。

そのメルマガの中に東電の事故で事故処理のための作業員のことについてfacebookに投稿された記事をシェアしている部分があって、志願者が「自分はもう子育ても終わったから」などとコメントしていたことなどを改めて目にする機会となる。

 

当時は自分もよくわからないままに、このコメントになにか違和感を感じていたのだが、今読み返してみてその違和感がわかった。

 

戦争における出征者に酷似しているのである。

どこが似ているかというと、「自分を犠牲にする」というところで、こう書くと「きれいごとだ」などという思いも浮かばないわけではないが、もう少し説明すると、「責任とは一体なんであろう」という違和感。

 

東電の事故の場合、直接ではないにしろ、少なからぬ年月を会社と共に過ごした高年齢社員がある程度の責任感からこの申し出をしたことは少し理解できる。それにしたところで非人間的な作業を強いられてしまう理不尽さそのものは変わることがない。

 

ところが、戦争の場合はどうだろう?

共同体の一員としての責任としての出兵という建前で、概ねその役割は若いものに振り当てられる。だとしたら戦争を引き起こした側の(大抵はその共同体の高齢者指導者)責任はどうなるんだろうか?とふと考えてしまうのである。

 

なんか社会の根底となる共同体の運営と、営利目的の商売を一緒に考えてもうかればそれでいいとか、なんとなく、そういう考え方が最近透けて見えてきて、どうにもやるせない。繁栄とか豊かさとかいったいなんだろう。そんなことをふと思った。

(別に困窮がいいとかそういうことではなくて)

預言の世界もこうしたものなのか、と考えてしまった事例

本当に戯言世迷言。

人間社会における不幸な状態には病気や貧困や争いなどがあって、それらは一般的に改善されるべく、人々は行動するわけだが、どういう発想からそれらを改善していこうとするのか、そこのところが気になることがある。

 

例えば、そういう状態は自分の行いによる結果なので、その行いを改める。改め方はいろいろあるけど、奉仕から信仰に関わるのがスピリチュアルや宗教の得意なところである。

 

その際に、かの分野では神様仏様に帰依する、不思議なエネルギーを使う、不幸な状態と思えるものが、実は神聖なものだと気がつくような体験を重視する、といったところが、病気の私としては思いつくところ。

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まあ、それは良いのだけど、ある日、スピリチュアルなブログを読んでいて、不幸であることは周りに迷惑をかける、みたいなことが書かれており、ちょっとびっくりした。私はそういう考え方がよくわからないから、不如意だと周りに頼らなくてはならず、頼られるのは迷惑なのかな、という連想をしてしまったのだけど。

 

一方で、その状態は神様からのギフトだから感謝しなさい、という書き方をしたブログをいつも見かけているから、まあ、同じスピリチュアルでもいろんな考えがあるんだな、とちょっと画一的に見ていた自分の考えを改めた。

 

それにしても、不幸な状態は周りに迷惑をかける、っていうのは、なんというか、どんな人にでも人権がある、という考え方に違和感を表明してるようなもんじゃないかな。好きでそういう状態になったわけじゃあるまいし。

 

人々にショックを与えて、こういう状態について目を向けさせる意味の文学的表現、ということなのかもしれない。

 

2017年まとめ

今年はまた自分の立ち位置を確認しなくてはならない年となった。

一番がっくりきたのは、やっぱり服薬の再開。

2年も薬飲まずにやってきたのだけど、ちょっとその間張り切り過ぎて疲れてしまったのかもしれない。なにしろ前年は検定試験を受けるために資格学校へ通い、趣味の教室に通うなど、前に服薬していたときとは比べ物にならないくらい活動したから。

みなさん、無理は禁物です。

 

ということで、年頭から自分のありようを再検討することになったのだけど、そこで自分は本当はどうしたいのかということを意識しなくてはならなくなった。少しやりたいことがあって、お試しで出かけても、すぐ体調を崩してしまうため、よほどのことがないと続けるのが苦痛になってくる。

 

まあ、しかしなんですよ。

自分の精神疾患って思った以上に大変だったんだ、と実感した年でもあったな。

これを機会に、自分に無理強いして人に合わせていくの見直すわ。

 

ということで、みなさま、良いお年をお迎えください。

 

意識

自分の意識についてあれこれと感じていた。

 

そもそも、自分は環境によって育まれているのだから、自分が人生を創造するといったって、結局は選んだピースを組み合わせていくだけだし、そう考えると自分の意識が一番、というのもずいぶんおごり高ぶった発想に思えてくる。自分の意識が組み合わせる人生だけが人生ではなく、どこからともなくやってくる別のピースがその組み合わせの中にいれろ、いれろ、と迫ってきたとき、自分の意識はどこかやっぱり小さなエゴであることを痛感せずにはいられない。

 

 

一方で、なにもない世界ってどんな感じなのかなあ、と思ったのだが、そもそもなにもない世界には自分の意識すら存在せず、したがって、そういう質問は成り立たないということもおぼろげに考えた。もし、何もない世界を意識したらそのとたん、わたしはわたしの意識の中にある充満した世界を持ち込むことになるから。

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オーラソーマB055『キリスト』

「フリマどく」を私はどう解釈したか

今朝、一つの夢を見た。

男が真っ暗な部屋でネットをやっていて「フリマどく」と書かれたアイコンをクリックするのだが、クリックしたとたんまずいことをしたのではないかと怖くなって、慌てて飛び出すところ。

 

夢の中で私はこの男であり、飛び出すや否や私はそれを見ているものに変わる。

なぜ、怖くなったのかというと、夢の中でクリックしたとき「フリマどく」の「どく」が「毒(ポイズン)」だと直感したからである。

 

ところが、目が覚めて、この夢を思い出したときに、夢の中の「どく」は意味が通じにくいにも関わらず、「独(独身)」を連想させた。

 

で、そのあと、前に似たような夢を見たことがあって、この夢をメモしておこうと、ノートに「フリマどく」と書いたとき、この「どく」は「読(読む)(リーディング)」ということが浮かんできた。この「読」にはただ単に文章を読むことから解釈することまで実に幅広い意味を持つことがあるが、こうやって時間が経過するせいなのか、あるいは感覚器官の受け取り方で印象が変わるのか、夢を見たときの直感とずいぶん離れてしまった。

 

夢を解釈するときには、なるべく夢の印象から離れないようにするのがいいのだけど、こうして、いくつかの感覚器官や時間、メディアを経過していくときに、哀しいかな、私の受ける印象はどんどん変化していくのだろう。

 

澁澤龍彦は「夢」というエッセイの中で、「覚醒した目で再構成する夢の現実は夢そのものとは、いつも微妙に違っていることを痛感する」と書いていたが、まさに今、この夢と夢の記憶の違いを実感して、その文章の意味を痛感したのだった。

 

 

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『世に棲む患者』という本

十数年前から数年前までずっと澱んだように単調な暮らしをしていた私に、希望の光をもたらしたのは、中井久夫さんの著作だった。みすず書房から出ている『最終講義』を初めて読んだとき、精神病(精神分裂病統合失調症と呼ばれているもの)の世界が治療者の見方によって、こんなにも人間の神秘と可能性に迫ることができるのかと感激したのである。以後、自分の体調の許す範囲で何冊か読んだ。

 

ちくま文庫の『世に棲む患者』は中井先生のエッセイや雑感などの文章を集めた著作であるが、表題の文章は患者と社会の関係について述べたものであって、「棲む」は「住む」という漢字ではないところに、中井先生のやさしい心遣いが現れていたように思う。

 

この本を初めて読んだのはもう5年以上も前であるが、今回ふとこの本のことを思いだす機会があって、少し本を開いたところ、こんな文章にあたった。

しかし、治療者と患者の共有しがちな「哲学」あるいは「固定観念」で患者、あるいは元患者が世に棲む妨げになってるものがある

と、いう前置きがあって、以下、次のような内容だった。

 

「治るとは働くことである」という「哲学」「固定観念」、これが容易に逆転されて「働くと治ったことになる」という命題になって患者を焦らすことであり、患者を「労働改造」させようとすること。

中井先生はあまりにも極端な労働改造は沈鬱な思想に思えて、患者を精神的委縮に結び付けかねない有害なものだという。この考え方は精神病に限ったことでなく、昔は結核、あるいは現在の発達障害うつ病などその時代によってターゲットになるものがあるようである。

また、この観念の別のバージョンとして

「治ったら薬はいらなくなる」が「薬を飲まなくなれば治ったことになる」という形で現れることもある。

このような逆転する命題を抱えてしまう患者の多くが治療に絶望しているのだが、多くは治療の方針などが十分知らされていないことが少なくない、ということだ。

 

もう一つ、これが私にはかなり絶望的に思えた指摘がある。

「健康人とは、どんな仕事についても疲労、落胆、怠け心、失望、自棄などを知らず、いかなる対人関係も円滑にリードでき、相手の気持ちがすぐ察せられ、話題に困らない」という命題は患者の中にはありがちだが、患者のもつこの「超健康人幻想」が精神科医の中にも分有されているかもしれない、ということだ。これが不毛な自己点検へと追いやってしまうこと。

 

初めて読んだ当時はあまりピンとこなかったのだが、今読み返してみると、この種の絶望に私がさらされていたのだとわかる。だからこそ、この数年間いろいろ試行錯誤して、結局疲れ切ってしまった今がある。

 

一方で、このような「固定観念」は病気で余裕がないから、ともいえそうだけど、余裕がないときにそういう「固定観念」が現れるのはなぜだろう?これこそ社会の「固定観念」なのではないかなあ、と感じる。

 

この中井先生の書いてたこと、なんとなく今の社会で問題になってる労働の在り方にも言えないだろうか?

勤労感謝の日も近いけど、「健康で普通の人並みの生活」とは一体どういうことなんだろうかな、と思う。いろんな事情で労働が困難な人々も「世に棲める」には、何か今の社会の方法ではきつそうだな、と感じる。それは単に労働だけの問題でなく、ライフスタイル全体にも及ぶようなこと。

 

 

 

ウミセンヤマセン

今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

おおさまのみみはろばのみみ、なとき。

 

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 最近ニコタのフリマの出品一覧表を眺めているんだけど、無料アイテムを出品して課金アイテムに変えようとする人が結構いて、なんというかちょっと違和感を感じたので、少しそういう話題を扱っているところの記事を読んだのだけど、いい年して人間不信になりそうだった(笑)

 

過去の人気品や限定品に高価な値段がつくのはわかるけど、それが高じて無料アイテムから課金アイテムへ、そして人気のアイテムに変えていくテクニックがあるらしく、出品するときのメッセージの書き方とか記事に載っていたりした。

 

そのなかに、課金アイテムに変えたい意図を隠すための文言というものがあって、それを読んだときに、思い出したのはそういう文言を真に受けて、応募したことである。その文言だけではその人の価値観とかわからないから、まず応募してみたんだけど、ことごとく不成立になって、さすがにちょっと落ち込んだ。

 

それで、自分から出品して、欲しいアイテムを書いたらきちんと成立したので、まあ自分がおかしいわけではなかったとほっとしたけど、そうやってフリマを見ているうちに自分の中の価値観がおかしくなっていくのがわかった。

それで、これではいかんとそういう話題のところを探して、冒頭のことを知り、少し嫌になったのでした…

 

まあ、そういうことを知ってから、思い出したことがある。

出品メッセージでたまに

「本気の応募お待ちしています」

とかいうのを見かけて、そんなにひどいので応募してくるのかなあ、と少し同情したりしたのだけど、もしかして、海千山千なフリマ利用者たちがお互い欲望を丸出しにして戦っておるだけの話だったかもしれぬ、とか、あほらしくなったり。

 

で、こういう話って、ニコタの中では書けないから、つい、お題に乗っかって書いてしまいました。

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