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bluerose’s diary

15年間の向精神薬服用生活から断薬しました。

気が早いけど、逃げるときは全力で

日記 健康管理

もう少しすると、新年度が始まり、新しい生活に入るひとが大勢いるわけだけど、一方で、その新しい生活が地獄の様相を呈してきて、でもここでやめると自分はダメ人間、とか考えて、にっちもさっちもいかなくなるケースなどがあり、実際ニュースでそんなのを見聞きしてしまうと、逃げ方教えないといかんよなあ、とか思う。

 

自分が苦しい時、それに立ち向かう方がいいのか、逃げる方がいいのか、判断に迷うことは真面目な人ほど多いのではあるまいか?

 

私もそういう傾向があって、苦しくてやめてみたものの、あれは現実逃避ではなかったのか?と、精神疾患になる前の若いころはそうやって自分をよく責めていた。今思えば現実逃避だろうと、避難だろうと、結局同じことになるだろうな、と思うので、その点についてはもういい。

 

しかし、断薬してから一時期働いて、辞めたくなった時に、さすがに若いころの葛藤を思い出した。

だって、当時は十何年かぶりの職場で、働いてまだ数か月、ここで辞めるとなんかダメ人間になるのでは、とかやっぱり頭の中を去来する不安があるわけで、そんなときに、若いころには使わなかった、占い、というものに相談した。

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画像はイメージですw

 

辞めるまでの1か月ほどに、職場について、なんとか続けていきたいからそのアドバイスを、というような内容で何回か引いていた。そのときの記録を当時やっていたブログに書いていて、その記録を見つけたので読むと、こんなことが書いてあった。

 

あー、職場の人間関係が気になりだした。
いつも自分は毎回なんとなく疎外されてる気分を感じてしまうのだけど、今回もまた現れだした。
まあ、どうこうできるというわけでもないので、カードをひきまくってみると、
メディスンカードではフクロウで、

フクロウは、『見えざるもの』を見る力ゆえに『知恵』の象徴とされる。見る力のない者は『まやかし』に欺かれるが、フクロウには正体が見えている。この能力こそ『知恵』の本質である。
とのこと。


それからドリーンバーチュの一枚引きのところへいくと「状況を正確に見る(ホルス)」のカード。
これ一部抜書きすると

“今のこの状況に対する自分の感情を信用してください。それは正確で根拠のあることだからです。自己不審を手放してください。他の人がどんな意見をしたとしてもです。あなたの霊的な感性は、真実を見る助けとなっています。”


それから観音力カードでは胡蝶の夢
“相応しい場所かどうかを確認しないまま、何処にでも行ってしまうようなところはないでしょうか?”

というメッセージが含まれている。

 

3つのカードが似たような意味なので、うーんと考えてみると、自分はいつも人の意に添おうとするというか、端的にいえば好かれたい、というところがあるんだよな、迎合主義。
おそらくこのパターンもうやめませんか?ていうことなんだろうな。

 しかし、恐ろしい。自分はなんか受け入れられてないなと感じるとたちまちうろたえて仕事が手に付かなくなる。だからこそこれまで気を張って頑張ってきたんだけど、流石に今日はもう心が折れた。
さて、この折れた心、自分はどうするかな?

【追記】
ということで一番気になってる人についてその人から自分はなにをまなぼうとしているのか、という質問をオラクルさんにぶつけてみましたw。
結果は
脱出
あなたの人生はどこかで引っかかっていませんか?
このカードは、今までの不自然な制限から自分自身を解き放つ時がきたと言っています。
ということです。
ここに臆病さが隠されてるんだよなあ。別に他人が悪いということじゃなくて、自分が事なかれ主義。
って、わかってるんだが、堂々巡りだな。

 

最初のフクロウのカードは正体をよく見ろ、ってことなんだけど、当時はわからん。で、オラクルやら観音やらがまるで補完するように自分の感覚を信じろ、とか不自然な、とかそんな言葉が並んでいた。でも、当時はこんなカード引きまくっても、自分臆病でやめたいと思ってる、的解釈をしているのだから、全く固定観念恐るべしだ。

 

そして別の日に

今、向かい合うことをかんがえていたのだけど、逃げるとか避けるとか関わりを持たないようにというような質問でネットでカードを2つひいてみたら、
一枚はメディスンカードでスカンク。そこの解釈では本能に従ったほうがいいこともある。
それからドリーンバーチューのところでは信じる力。天の導きに従え、とある。
て、ことはあながち立ち向かうばかりが能じゃないような気もしてきたな。
自分、すぐなんとかしたいと思うからこじれるのかもしれない。もしかして逃げるが勝ちなのか?

 

 ということを書いていて、ようやく、自分逃げることに焦点を向け始めた、という顛末。

この後辞めてから、自分はさらによい仕事についた、とかそういうのはないので、説得力ないかもしれんがw

でも、この後に資格とりに走って、筆記試験に対するリベンジを遂げてせいせいした。(2006年ころに一度筆記試験ありの就職活動をしたとき、こともあろうに、頭が真っ白になって、解答用紙になにも書けなかったというトラウマがあったのである。当時は服薬中であった。)

そして、一連の仕事に対する自分のやり残し感を払拭し、ようやく自分の身体を優先させて考えることに罪悪感とか覚えなくなったことは大きい。

 

一度しかない人生ならば、幸せだと感じることをやるのが一番いいと思う。

 

何事もあきらめないで取り組むことは大切だけど、自分で変だな、と感じたら、どんな手を使ってでも、それを確認し、だめた、と思ったら全力で逃げる。

変だなと思えないほどまで疲れ切って働けなくなってしまう前に。

 

ほんと、これ、新社会人たちに対して病み上がりの人間が祈っていることです。

 

 

 

 

 

19にまつわる話

戯言 日記

今日は3月19日。

特になにか期するところがある日付ではなかった。

 

先ほど、ここには載せてない自分の娯楽ブログで、健康について書かれた他の人のブログ記事をリンクしたのをメモ書きとして記事をアップしたら、

3月19日の19時19分という日付になっていた。

ここで、おおっ!

と思った私は、にわかになんか19に意味でもあるんだろうかと思った。そんなことを思いつつ、タロットを引くと、これが太陽さんのカードで数字では19である。むむ?と思いつつ、欲しいものを今買うべきか後でもいいか、易を立てると、これがまた19番目の卦という。

 

どっひゃ~と思って、取りあえず買い物は即座に注文したが。

 

そういえば、先月の2月24日には、なんかしらん、24にまつわる数字をよく見かけた。

と思い出して、今このブログの記事を調べたら、その日はインナーチャイルドの願いという記事を書いているんだなあ。何かしてほしい事あるのかもしれない。

 

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道化と龍の耳

 

この間、初めての場所へ行った。

どうしようかちょっと迷っていたのだけど、この際だから行ってみようと思ったのだ。

でも、なんとなく落ち着かなくて、当日易なんぞを立ててみたら、また困難の卦が出たりして、やらなきゃよかった、とかへこんだり。

 

そう思いつつも出かけて、用心したおかげか、ちょっとした失敗はあったもののなんとか無事終わった。そのあと帰り道でその場所で一緒だった人と少し話をしたのだが、この方と話をしているときに、自分の道化性というかそういうものを自覚して、帰ってきてから、なぜか

「まあ、今この道化をやりたいんだろうから飽きるまでやるがいいさ」

と思った。

 

そこで、初めて私は、少なくとも人と人との関係性においては自分の本質などと思っているものはその持っている特性の一部にすぎず、これを人によって使い分けているだけなんだな、と気がついた。

そして、人の本質というのは、「無」というものそのものではないかと思った。(空とか虚という言い方も当てはまる)

 

なぜそんなことがすらすらと思い浮かんできたのか?

 

思いつくのは自分がずっとここ数年聞き続けているラジオ番組のような「幻聴たち」の声である。

この声はもしかすると多重人格の一つの表現なのではないか、そして、分離された「わたし」の意識や性格のうち自覚したものが「道化」みたいだなと思った。そしてそれは私自身というには少し他人事のように思えたのである。

 

この幻聴たちは声も老若男女が入交じり、さらに同じ声の持ち主が幼くなったり、オクターブを変えて裏声になったりと、なんだか一見(一聴?)カオスのようでわけがわからなかったのだ。

けれども、ずっと聞かされていくうちに虹のように秩序だった部分が見えてきて、そこに現実の人との出会いで、それが何を意味するかわかったのである。そして、「彼ら」が虹だとすると、聞いている私はプリズムで分離されていない「光」そのものではないだろうか?と感じた。それが上記の人格についての解釈へと繋がっていったように思えるのである。

 

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(拾った画像。こんな感じじゃないけど、なんか笑ったので貼り付けてみた…3/19追記)

 

 

実は、このことがある数日前に、耳をマッサージしていると、ふいに、聞こえない方の耳(この耳は幻聴が聞こえる耳でもあるのだ)たぶに真珠のような光の珠がイメージされた。

以前、初めて幻聴が現れたときには耳の上にまるで耳かけ式の補聴器のように黒い箱がイメージされたが、もうそのようなものはなくなっていた。

 

耳が聞こえないことを漢字で「聾」と書く。

筒井康隆さんがどこかで書いていたがこの字は「龍の耳」と書く。

そして、その時は私を触発してくれた方と龍の話を少しだけしたのであった。

 

ところで、道化のことだが、どうやらこの性格は「インナーチャイルド」にも関係しているらしく、自分はこの部分を出したいのだけど、過去にこれをやっていつも最後に傷ついていたかもしれない、と思った。そして傷つけているのは他人ではなく、その振る舞いを心のどこかで苦々しく思っている私なのであった。

 

 

ただ、これがわかったからといって、にわかに生活が変わるわけでもないけど、まあ、無理しないでいこうと思います。

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“ありとあらゆる手段を使って自分を救済せよ”

健康管理

向精神薬から離れてそろそろ2年半。
この間順調に回復しているかというと、必ずしもそういうことはなく、大きなところでは年末から年明けにかけて起こった頭痛幻聴とそれに伴う気分の悪化、そして、普段でも時に、何かしらん、落ち込んだり、不安になったり、緊張したりすることがある。

 

昔なら、こういう気分の変調のとき、薬を飲んでやり過ごしていたりしたのだけど、今そういう場合どうしているかというと、気分転換の方法、癒しの方法など、自分の知っているもの、学んだものなどをとにかく使い倒している。

 

これは一般的な人が行っていることだろう。

ところが、病気になる前のわたしときたら、こういう気分転換とか癒しというものについてどこか侮っているところがあって、こういう手段を使ったら、それにずっと頼らなくてはならなくなるから、つらくても我慢しよう、などというとんでもないドMだったのである。

 

もちろん、当時はそれが普通だと思っているからそんなことには気がつかず、今思えば、という話。

 

タイトルに書いた“ありとあらゆる手段を使って自分を救済せよ”というフレーズは去年だったか、一昨年だったか、ほとんどボランティア的なメールセッションを受けたときに、そのセラピストさんの文章を読んでいるうちに浮かんできた言葉だ。

 

メールの中身は「自分を大切にしてね」みたいな文章なのだが、そのためにできることはなんでもしよう、という感じのことが書かれていて、それを読んで自分は自分を大切にする、ということを、わがままではないか、と思い込んでいたことと、既存の医療だけが病気を治すことだ、と思い込んでいたことに気がついたのである。

 

代替療法やいろんな生活習慣の見直し、気分転換の方法、そしてヒーリングなどの目に見えないものを使ったワークの体験など、そのメールを読んでから自分なりにやってきた。

 

最初は、「こんなことやってて、効果があるのかなあ」などと思っていたけれども、それらのことを行っていくうちに、自分なりに忍耐力がついてきたようで、先に述べた気分の変調も薬を飲んでいるときには飲まないと治らない、と思い込んでいたのだが、現在は、よほどのことがない限り、それほど長い時間続くわけではなくて、身体に心地よいことをやっていくうちに気分がよくなる、ということもわかってきた。

 

で、思い出したのは、10代から20代のころ、よく頭痛がしていたのだけど、30分だけ寝るとか、風呂に入って温まると、頭痛が治っていたこと。

今はあまり頭痛はないけれども、ストレスが身体的なものから緊張不安といった精神的なものに変化しているだけなのかもしれない、ということだ。

 

自分の気質によるものなのか、長じるにつれて、ストレスによる不調が変化してくるものなのかはわからない。

 

断薬してよかったな、と思う時は、こういうことに気がついたときかな。ずっと薬を服用し続けていたら、こんな自分の身体の変化に気がつくことなく、頼りっぱなしになっていたかもしれない。

 

治す方法にあまり頼りたくないからと思っていた自分が15年も薬に頼ってしまうような状況になったという皮肉。

 

気合で治すのは、ほどほどに。

と若い自分に教えてあげたいよ。

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お試しか?

日記

私は、ある特定のことについて何かしらの困惑を抱えていることに気がついた。

自分はそんなものはそれほどないと思い込んでいたのだけど、よくよく考えるとその事柄に対して、真っ向から取り組んだことがなくて、無意識に流していたのではないかと思ったのだ。

 

それで、常識的に考えると、自分は結構それで自分を制約しているかもしれない、と思った。もちろん、私が思い込んでいる観念は、他の人も結構抱えている問題だし、それほど責められるようなものではないのだが、気になりだしてきたので、少しこのことについて考えてみようと、思った矢先。

 

まるで「お試し?」と思うような出来事が起こった。

それは自分に若干関係するけれどもあまりタッチしていないことについて時間がとれるか?と聞かれたことから始まる。

私はその時期、集中していたいことがあるので、一瞬困ったのだが、時間を取ってと指示された時期は時間が空いていたし、そういう用事は自分も関係しているからやらなくてはならないのだろうと当たり前に思って、承諾の返事をした。

 

して、返事をしてから、もう一人同じ用事の人がいたのだが、その人はどうしたのだろう?と思って聞くと、「時間取りたくない」と聞いたので、自分はまた一瞬絶句した。

 

 

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…自分時間とらなくてもいいのかな…

 

その用事は通常関わっている人は一緒に行うべきものだけど、一応例外も認められている。だからどうなるかわからないけど。

 

それよりも、自分はそういう用事があった時に行かなくてはならないと思っていてほとんど条件反射的に「いえす」とか言ってしまったのだが、「のう」という選択肢もあったんだな、と気がつかされた。

 

で、思い出したのは、今回とは別の話だけど、やはり私は行かなくてはならないし、実際ほとんどの人は行ったとある用事のことだ。そこで私は「行かなかった」とこともなげにいう人を見つけて、結構衝撃を受けたのだった。それで自分はかなり考え込んでしまったことがある。

 

二つの用事はまったく違うようで、実は同じ性質のものだ。

既にあなたは参加していて、利益を得る可能性を与えている。だからこうしてほしい。

という無言の圧力、というと人聞き悪いかもしれないけど、要するに自分がその人たちの要請に反して安全圏から外れてしまったらどうしよう、という恐れだ。

 

まあ、今回の場合は、要請してきた人も詳しいことはあまりわからないようで、私と同じように考えていたから、私もちょっと自分のことは置いといて、やらなくてはならんのだろうと思った。それでも、自分のことを優先して「やりたくない」と言って交渉することは可能なのである。

 

こうしてみると、私は如何に自分の気持ちをよそに生活してきたのだろう、と感じる。

 

古い流行り言葉だけど

「NO」と言える、なんとか

ということについて少し意識的になってみよう。

 

 

 

インナーチャイルドの願い

わたしのこと 日記

最近、スピリチュアルなことを扱っているところを色々閲覧していて、とある本を見つけた。

ルイーズヘイという人の書いた「鏡のワークブック」という本だ。

 

ルイーズ・ヘイの鏡のワークブック

ルイーズ・ヘイの鏡のワークブック

  • 作者: ルイーズ・ヘイ,宇佐和通
  • 出版社/メーカー: 株式会社JMA・アソシエイツ(ステップワークス事業部)
  • 発売日: 2016/12/22
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 アメリカで有名な自己啓発やスピリチュアルの人々は彼女の出版社ヘイハウスから本を出してるらしい。日本ではどのくらい知名度があるのかわからないが、かなり高名な方らしい。

 

この方が今紹介した本のためのワークショップをオンライン上でやっている、というバナーを見かけて、ためしにそこにあった試し読みを閲覧した。

すると、私は最初のページを読むや否や、思わず感涙してしまったのである。

それで、これはちょっとやってみなくてはなるまい、と感じて本を購入し21日間のプログラムを全うした。

 

この本は私にとって、思いがけない自分の忘れられた記憶を呼び戻した。

 

インナーチャイルドについてのワークがあり、私はこれにかなり抵抗を感じた。実をいうとインナーチャイルドぴんとこなかったのである。しかし、ルイーズさんは大人になるとインナーチャイルドを無視するか見下すようになる、と書いていたので、それならば、と抵抗しつつワークを進めていった。

 

左手で自分の姿を書くワークがあって、それを行ってみた。

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描き終わって、この自分の顔が

「なんだかマイケルジャクソンに似てないか?」

と思って、それはなぜなんだろうと不思議に思った。

なぜなら、私は特に彼のファンでもないし、かといってアンチでもない。超有名スターだなーという感想しかもってなかったので、左手で書くということの不思議さを感じたのである。

 

そのあと、この絵を見ながら、ワークブックにある質問に自分で書き込んでいくわけだが、この時もマイケルに似ていると思った理由は思いつかなかった。

これが8日目のワークである。

 

描いた姿を本に挟めたまま、着実にページを進めていき、最終日。

この日のワークでは「前のワークで記録していたことを読み返してみましょう」という項目があって、それを行って、8日目にきて、文章を読み、この絵を見たときに、なぜマイケルに似ていると思ったのかようやく理由がわかった。

 

私は、幼いころに容姿コンプレックスを持っていたのである。

大抵の女性は多かれ少なかれそれを持っているだろうけれども、私の場合、子供のころ日焼けしていて、色黒だった。そしてそれがたまらなく嫌でしょうがなかった。しかし、子供のころの私はそれを言語化して自覚できなかったから、なにかしらん、屈折した思いがあって、自分は醜い、という意識がどこかにあったらしい。

 

いや、自分でもびっくりだけど、確かにそうなんだわ。他にもマイケルみたいに見えた理由はあるのだけど、一番大きいのは肌の色に関してである。

 

現在は年をとったせいもあって、あまり肌の色は気にならなくなったが、それ以外の容姿に関しての自分の思い込みとか概念とか信念とか、いっぱい出てきて、それが私の中でかなりな分量になっているようだ。

 

若いころ、私は容姿より自分の中身を気にしていた。どうして自分はこうも性格が好きじゃないんだろう、みたいなこと。

もしかすると、それは子供時代に出来上がった容姿コンプレックスが無意識にあって、それが自分の精神に影響して、そんな風に思ったのかもしれない。

実際、私は長じてから容姿による不都合や嫌な思いはほとんどしていないのである。

あるのはもっぱら自分の性格的なところによるものだった。

 

今、それで美容とかアクセサリーとか少し見ているのだけど、アクセサリーなどは

「こんなに美しいものがあったんだなあ~」となんかすごく新鮮な気持ちで見ている。

そりゃ、多くの女性がプレゼントにねだるのも無理はないなあ、と。

 

そして、スピリチュアル好きに女性が多いのもわかる。

パワーストーンとか美しいお守りとか、美しい文様とか、見ていて飽きない。

少なくとも自分はそう。それに、スピリチュアルで女性が願うことって結局どの分野であれ

「美しくなりたい」

ということだから余計に。

 

美しいものがもっと増えるといいな、なんて思う。たぶん幼いころの自分の願いはこれだったのだろう。

 

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実は警告だったかもしれないこと

わたしのこと 健康管理 精神科時代 日記

前回、私は過去の後悔について記事を書いた。

過去記事:過去の後悔 - bluerose’s diary

 

この記事を書いた後、またちょっと緊張したり落ち込んだり少し不安定な状況になったのだけど、時間が経過した今、この後悔に至る状況が、去年の年末に頭痛と幻聴が出て体調を崩した状況と酷似していることに気がついた。

 

詳細は省くが、年末に倒れたときの原因となったちょっとしたストレス、そのストレスに絡んでいた人が、実は過去の後悔で絡んでいた人を彷彿とさせる人だった。なんというか顔とか体つきが似ているのではないけれど、雰囲気とか何気ない言葉遣いにそういうものが過去の後悔の人を連想させるのである。実際、最初、その年末のストレスに絡んでいた人と知り合ったときに、正直、ちょっとぎょっとしたんだよね。なんというか、「勘弁してください」みたいな感じで。

 

そのあと意気投合したということもなく、まあ私のほうも緊張していたし、相手の方もなにか含むところがあったのかもしれない。

 

そして、年末。

ストレスとなった会話において、なんと、私はそんなことは言うつもりがなかったのに、気がつけば口からそんな言葉が出ていて、自分でも驚いた。相手の方も驚いたかもしれないが、もしかして「やっぱり」と思ったかもしれない。

表面上はそのあと一言二言会話して、それからは会う状況になっていないけれど。

 

今述べた年末の状況が、また、「過去の後悔」にシチュエーション的にそっくりなんだわ。その時は別に相手の方も私も含むところがあったわけでもなく、むしろ社会的な判断でいくと、仲の良い方だろうと思う。それが、あるとき、やっぱり自分はそんなことを思いもしなかったという返事をしてしまって、あとから自分が驚いた。

そして、その何気ない返事はいつしか自分を後悔へと向かわせる傷となっていった。

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私は、この過去の後悔の時期、自分では傷ついていなくて、むしろ相手の方に申し訳ないとずっと思っていた。そして、今回似ている人に出会ったときも、自分は緊張して相手の方に申し訳ないとずっと思っていた。

 

けれども、私のずっと奥の奥の心の中では、その人たちにどうしてもコミットできない状況があって、その理由は心のずっと奥底にあって普段の私には補足しがたいのだろう。

 

しかし、一つ言えることは、この二人の方に、私は自分の気持ちを正直に伝えることができてなくて、どこか無理していたかな、ということだ。

それは、仲が良くても、緊張する仲でも同じで、実際私は数年前に、別のところで会うと緊張するような他の人にも出会っているのだが、こちらの方は緊張するがゆえに、なぜか自分に正直にならなければ、という思いをもたらしてくれるのである。

 

人間の付き合いというのは不可解なものだ。

結局は縁があるかないか。

ある程度大人には

「今頃そんなことに気づいたか」

と笑われそうだが、まあ、人間気づかない時はほんと気づかなくて悩んだり苦しんだりするわけで。

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