bluerose’s diary

精神疾患のこと、その他持病についても少し

ちょっと思い浮かんだこと

なんかうまく言えないんだけど、私はどうやら対人関係において、相手の望んでいることや期待していることに対し、それに応えなければこの関係がうまくいかなくなるのではないか、という恐れをどこかに持っているような気がする。

 

相手の気持ちがよくわからないので、なんか望んでいることとか勝手に忖度してしまい、それに自分が振り回されている感じがする。だから自分がわけわからなくなるのかもしれない。

 

相手の気持ちを無視するとかそういうことでなくて、相手の状況に囚われず、ただ、自分の気持ちをストレートに感じること。

 

そういうことをちょっと心がけてみよう。

勘弁してほしい話

GWは家でゴロゴロ。新聞なんかをまともに読んだりして、世間の雰囲気をちょっとだけ感じている。

さて、新聞の読者からの投稿欄をつらつら眺めていて、とある女性の投稿が目に留まった。

その女性は生まれて初めて処方された薬が合わなくて病院巡りをした話を書いていた。

ほぼたらいまわし状態の中、ようやく受け入れてくれた病院で看護師さんから掛けられたいたわりの言葉に感激した、

という趣旨の投稿なのだが、

その中で「合わない薬は毒になる」というようなことを書いていて、まあ、そうだね、とその時は思ったが。

 

ところが、読み進めるうちに件の看護師さんにかけられた言葉の所で、

“同じ職業として自分はできていただろうか?”

というようなことを書いていて、

「もしかして、この人も看護師さん?」

とちょっと驚き、最後に職業欄をみるとやっぱりそうだった。

 

医療関係者でなくて健康な人なら、合わない薬は毒だ、ということがわからないこともあるだろうけど、医療関係者が、今まで薬が合わないということがどういうことなのか無意識だったことに、ちょっと愕然としてしまった…

 

 

 

 

 

スクラッチアート 花曼荼羅

このところなんということなく、散歩したりヒーリングしながらゆっくりと過ごしている。ちょっと幻聴の具合が良くなくて薬を飲んで夜眠るという生活になっているが、そんな中でも小さく子供のようにこういうものを楽しんだりしている。

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クラッチアートと呼ばれるもので、書店でこれを手軽に楽しめるものが売られていたので買ってきたのだ。

この絵は付属のペンで黒く塗られている部分の下書きを削っていくと蒔絵のように仕上がる。

他にも別のキットが入っているが、それらはシルバーだったりレインボーだったり、下に塗られている色はさまざまである。

 

 

これで線をなぞっていると、何も思い煩うことがなくなっていく。ちょっと瞑想に近いかも。

 

心を癒す大人のスクラッチアート 『花曼荼羅』 ([バラエティ])

心を癒す大人のスクラッチアート 『花曼荼羅』 ([バラエティ])

 

 

『3.11』直後のメルマガバックナンバーを読む

とあるメルマガは10年以上続いていて、バックナンバーを配信してくれるサービスもあるので、それを毎日読んでいるんだけど、今朝は2011年3月23日配信のバックナンバーだった。

 

ヒーリング関係のメルマガだから、当然あの災害について、緊急の情報が書き込まれている。もう少しで7年が経つんだなあ、と感慨深く読んでいたのだが。

そのメルマガの中に東電の事故で事故処理のための作業員のことについてfacebookに投稿された記事をシェアしている部分があって、志願者が「自分はもう子育ても終わったから」などとコメントしていたことなどを改めて目にする機会となる。

 

当時は自分もよくわからないままに、このコメントになにか違和感を感じていたのだが、今読み返してみてその違和感がわかった。

 

戦争における出征者に酷似しているのである。

どこが似ているかというと、「自分を犠牲にする」というところで、こう書くと「きれいごとだ」などという思いも浮かばないわけではないが、もう少し説明すると、「責任とは一体なんであろう」という違和感。

 

東電の事故の場合、直接ではないにしろ、少なからぬ年月を会社と共に過ごした高年齢社員がある程度の責任感からこの申し出をしたことは少し理解できる。それにしたところで非人間的な作業を強いられてしまう理不尽さそのものは変わることがない。

 

ところが、戦争の場合はどうだろう?

共同体の一員としての責任としての出兵という建前で、概ねその役割は若いものに振り当てられる。だとしたら戦争を引き起こした側の(大抵はその共同体の高齢者指導者)責任はどうなるんだろうか?とふと考えてしまうのである。

 

なんか社会の根底となる共同体の運営と、営利目的の商売を一緒に考えてもうかればそれでいいとか、なんとなく、そういう考え方が最近透けて見えてきて、どうにもやるせない。繁栄とか豊かさとかいったいなんだろう。そんなことをふと思った。

(別に困窮がいいとかそういうことではなくて)

預言の世界もこうしたものなのか、と考えてしまった事例

本当に戯言世迷言。

人間社会における不幸な状態には病気や貧困や争いなどがあって、それらは一般的に改善されるべく、人々は行動するわけだが、どういう発想からそれらを改善していこうとするのか、そこのところが気になることがある。

 

例えば、そういう状態は自分の行いによる結果なので、その行いを改める。改め方はいろいろあるけど、奉仕から信仰に関わるのがスピリチュアルや宗教の得意なところである。

 

その際に、かの分野では神様仏様に帰依する、不思議なエネルギーを使う、不幸な状態と思えるものが、実は神聖なものだと気がつくような体験を重視する、といったところが、病気の私としては思いつくところ。

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まあ、それは良いのだけど、ある日、スピリチュアルなブログを読んでいて、不幸であることは周りに迷惑をかける、みたいなことが書かれており、ちょっとびっくりした。私はそういう考え方がよくわからないから、不如意だと周りに頼らなくてはならず、頼られるのは迷惑なのかな、という連想をしてしまったのだけど。

 

一方で、その状態は神様からのギフトだから感謝しなさい、という書き方をしたブログをいつも見かけているから、まあ、同じスピリチュアルでもいろんな考えがあるんだな、とちょっと画一的に見ていた自分の考えを改めた。

 

それにしても、不幸な状態は周りに迷惑をかける、っていうのは、なんというか、どんな人にでも人権がある、という考え方に違和感を表明してるようなもんじゃないかな。好きでそういう状態になったわけじゃあるまいし。

 

人々にショックを与えて、こういう状態について目を向けさせる意味の文学的表現、ということなのかもしれない。

 

2017年まとめ

今年はまた自分の立ち位置を確認しなくてはならない年となった。

一番がっくりきたのは、やっぱり服薬の再開。

2年も薬飲まずにやってきたのだけど、ちょっとその間張り切り過ぎて疲れてしまったのかもしれない。なにしろ前年は検定試験を受けるために資格学校へ通い、趣味の教室に通うなど、前に服薬していたときとは比べ物にならないくらい活動したから。

みなさん、無理は禁物です。

 

ということで、年頭から自分のありようを再検討することになったのだけど、そこで自分は本当はどうしたいのかということを意識しなくてはならなくなった。少しやりたいことがあって、お試しで出かけても、すぐ体調を崩してしまうため、よほどのことがないと続けるのが苦痛になってくる。

 

まあ、しかしなんですよ。

自分の精神疾患って思った以上に大変だったんだ、と実感した年でもあったな。

これを機会に、自分に無理強いして人に合わせていくの見直すわ。

 

ということで、みなさま、良いお年をお迎えください。

 

意識

自分の意識についてあれこれと感じていた。

 

そもそも、自分は環境によって育まれているのだから、自分が人生を創造するといったって、結局は選んだピースを組み合わせていくだけだし、そう考えると自分の意識が一番、というのもずいぶんおごり高ぶった発想に思えてくる。自分の意識が組み合わせる人生だけが人生ではなく、どこからともなくやってくる別のピースがその組み合わせの中にいれろ、いれろ、と迫ってきたとき、自分の意識はどこかやっぱり小さなエゴであることを痛感せずにはいられない。

 

 

一方で、なにもない世界ってどんな感じなのかなあ、と思ったのだが、そもそもなにもない世界には自分の意識すら存在せず、したがって、そういう質問は成り立たないということもおぼろげに考えた。もし、何もない世界を意識したらそのとたん、わたしはわたしの意識の中にある充満した世界を持ち込むことになるから。

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オーラソーマB055『キリスト』