bluerose’s diary

15年間の向精神薬服用生活から断薬しました。

なにが幻聴を変化させているのか

自分は幻聴もちなんだけど、最近あることに気がついた。

 

例えば、なにか選ぼうとして画面をずっと見ていると、最初はなんでもなかった幻聴がだんだん不穏な言葉に変わっていく。

私の感覚としては、別にイライラしているわけでもないし、まだ決まってないからずっと画面を見ているんだけど、いつの間にか不快な幻聴に変わっていることに気がつくと、我ながらどうして自分は乖離しているのだろう、と愕然とする。

 

これは何かを選ぼうとするだけでなくて、ただ、ネットをやっているときにも起こることがある。自分としてはそれほど変なところを見ているつもりはないのだけど。

 

それで、なんとなく、自分の意識が捕捉していないだけで、自分自身の飽きっぽさや疲れやすさが出てきてこういう不快な幻聴にかわっていくのかなあ、と考えた。

 

そんな折、ある考えがあって、それを文章にしようと入力をはじめ少しまとまらなくなったときに、しばしどうまとめたらよいかなあ、と考え出したのだが、結局試行錯誤して入力しているうちに、その文章はとりたてて発表しなくてもいいなあ、と感じ始めたので、文章書くのを止めた。

 

それで、ふと気がついたのだけど、その文章考えているときも結構時間がかかっていたのに、幻聴が不快に変わることがなかったのよね。何かを選ぶことだって頭を使うのだけど、この違いはなんだろうと思う。

 

で、今そのことについて考えてみようと、文章を打って、結論らしきものの文章を考え出したら、また幻聴が不快に変わっていったから、どうも自分は迷いが出てくると幻聴に影響がでるのではないかと推測している。

 

あくまでも推測だから、まだわからない部分はたくさんあるけど。

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【推定・仮説】喘息の要因になってるもの、私の場合

今朝はずいぶんとイライラしてどうしようもなかった。なんかわからないけど、そういう時は周りもちょっと干渉的になっていて、人のやってることに注意をするものだから、素直に受け取れない状態のわたしは、余計にイライラしていた。

 

そんなとき、購読しているメルマガに怒りについて、OSHOの本の一節が紹介されており、まあ、ずいぶんとタイミングがいいことだ、と少し怒りを忘れてしまったのだが。

 

オレンジ・ブック―和尚の瞑想テクニック
和尚
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その本は読んだことがないので、メルマガからの孫引きになるけど、少し紹介する。

犬のように喘ぎなさい

怒りに直接的に働きかけることが難しい。
なぜなら、それは深く抑圧されているかも
しれな いからだ。
だから、間接的に働きかけるがいい。…

メルマガではもう少し先まで引用されているが、半時間くらいできれいに流れていくという、この方法、読みながら、確かに怒りは自分でなだめようとしてうまくいったためしがないから、これはいい方法かもしれないな、と感じた。

 

で、ふと、自分の夢とかふと浮かぶイメージを思い出した。

 

自分の見た夢で、自分が変な踊りをしながら訴えたい相手に、綺麗に表現できる方が上等なのか、と心の中で憤慨しているのがあった。相手は無表情でなんともいえなかったけど。

 

あと、幻聴がらみのイメージなんだけど、怒りの人格化したものが自分の過去の状態をあらわしていると思われる人格化したものから分離して、そのために、その過去の人格化したものが、身体的に訴えるために、気管支の奥の方にやってきて私の呼吸を止めようとしている、というもの。これは2年ほど前のエビリファイを飲んでいたときに現れた、突然の呼吸困難の中で(窒息して死にそうになって飛び起きた)一緒に見えたイメージなんだけど。

 

ここまで思い出して、その怒りの人格化したものが、黄色い服をきていたイメージで現わされている幻聴の声の一人でなないかと気がついた。その人は当初本当にまるで猛獣のように檻に入れられて、そこから吠えまくっていたのである。今は檻の外に出ているイメージだけど、ちょっと悲しくなるくらいに愛想がよいので、ほんと自分はこのイメージが出てくると動揺してしまうのだった。

 

ちなみに、私の過去を人格化したような人はちょっと皮肉っぽくて、こちらもまたイメージが出てくると罪悪感というかそういうものが想起されてしまうのでなかなかに大変だ。

 

で、ここまで書けばおわかりのように、私の喘息の要因になってるものの一つに、怒りの抑圧のような感じがするのよね。かといって、怒りをすぐ表現できるかといえばそうそううまくいかない。OSHOも述べてる通り、それは「深く抑圧されているかもしれない」からだ。

 

よく、病気と感情の関係を述べた説を見かけて、私などは単純に感情を解放すればいいのではないかと考えてしまう。しかし、たぶん深く抑圧されたものは身体にまで食い込んでいて、解放する手がかりを失うのではあるまいか。

だからこそ、身体を使ったエネルギーの解放が大切なのかもしれない。

とはいえ、怒りのときは枕に攻撃するとか、大声で叫ぶとか、これって、なんか違うような感じがしていたのよね。

 

さて、これが果たしてどう影響するのか、やってみないとわからないけど、というのは、読んでいるうちに、怒りが消えてしまったので(笑)

 

今度、イライラしたときとか、思い出せればよいのだけど。

閉塞状態になったときには、「犬のように喘いで、うろうろと歩き回ると」半時間くらいできれいに流れる。

 

 

 

 

喘息の改善について占う

しばらく精神的に辛気臭いことをこのブログに書いていた。それで去年の秋ごろに張り切って書き始めた喘息のことをすっかり忘れていたよ。

最近、また喘息の改善について頑張らないといかんね、と思い立ち、今一度生活を見直しているところだが、やっぱり、私の場合、精神的に辛気臭い➡ちょっと下手すると妄想が始まりそう。みたいな時には少し喘息の塩梅がよくなる傾向にある。なんでかよくわからないけど、きっとなんかあるのだろう。

 

普通、精神的に辛気臭いときって喘息も悪化しそうなものだけど、そうじゃないところが不思議。この関係はきっと頭で考えても理解できないのかもしれず。

 

ということで、遊びがてら、喘息の改善について占ってみた。

使ったのは、オショーの禅タロットで、フライングバードと呼ばれる方法である。

www.osho.com

説明書きによると、

このレイアウトは、飛んでいる鳥の形にデザインされています。選ばれて左の翼に置かれたカードは、私たちの女性的な、受容的なエネルギーを象徴し、暗示しています。一方、右の翼は私たちの男性的な、能動的なエネルギーを象徴しています。最初に引かれたカードは飛翔の先導者であり、この能動的な側から来ています。続くそれぞれのカードはその前のカードに呼応していて、「鳥」をさらに高く上昇させ、質問者をより大きな明晰さと内なる理解へと入って行かせます。

ということらしい。要は中央のカードのようである。

結果を画像に残してみた。

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これでいくと、人生を信頼して、明晰さをもって物事をみて、クリエイティブにエネルギーを使え、みたいな読みができるが、一方でヒーリングが起こっているのでそれに心を開くとか、ガイドの声を聴き信頼する、という感じのカードもある。

 

つまり、なるようにしかならん、という話でもあるみたいで。

 

じたばたしてもしょうがないのかもなあ。

けれども、喘息の改善を考えてる最中ってあまり辛気臭いことを思わないんだよね。

その代わり、気を付けないといつの間にかPF値が大幅に下がりだす。

意図的に喘息を改善してやろう、とかムキになるとダメなのかね。

 

 

 

 

今朝の夢

最近、あまり夢見がよくない。よくない、という意味は、夢の中の感情がつらいものが多いということで、日常生活で吐き出されない感情が夢の中を通じて解放されるとか浄化されている、という感じなのかもしれない。

 

今朝の夢もまたそんな夢だった。

 

昔の家と今の家を混ぜたような自分の部屋に知人がいて、紙に何かやっている。私の部屋はカレンダーのような紙が大量に散らかっていて、知人はその紙に何かやっているのだ。

そのうち、部屋に母がいつの間にかいて、母はどこぞの芸能人からのプレゼントに応募したところ、当選して、その贈り物が私の部屋に運ばれてきたのである。

その贈り物が部屋いっぱいの大きさのキャンバスに描かれた絵なのだが、こちらからはどんな絵なのか見えない。私は母がそういう懸賞に応募していたことをまるで知らなかったが、部屋にいる知人がなぜか知っていて、私は少しショックを受けている。

また、部屋は散らかっていて、自分は知人にその部屋を見られていることが恥ずかしいと思う。

また、当選して送られてきたものが絵だということで、なにか自分が身にならないものばかりを追いかけているような気分(絵に描いた餅)になってうつろな気分で目が覚めた。

 

ここ1~2年自分なりにいろんなことをしながら生活を立て直したいと思っていたのだが、どうもうまくいってない、たぶんそんな気分をずっとごまかしていたのかもしれないなあ、と思う。

 

で、私は以前人に、「どんな風に感じますか?と聞いたときに、○○だと思う、という答え方をしている」と指摘されたことがある。

自分の気持ちを自分の考えたことと勘違いしているのかもしれない。

この夢で感じたことと質問してみると

「バカみたいに夢ばかりでかい」

という感じがする。それは自分でみると批判的な感じになるのだけど、たぶん誰かの意見をうのみにしているのに、自分ではそれに気が付いていなかった、という感じかもしれない。だから夢の中でそのことに気が付きなさい、というメッセージなのかもしれず。

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Remember me to bluerose

日常生活で何気なくしていることに、ある時ふと小さな嫌悪感を感じることがある。その気分はすぐに消えるのだけど、まるで自分の好きな習慣を好きな人に批判されたような気分なので、もしかしたらその好きな人のことと関係あるのかもしれない。

 

小さな嫌悪感を感じるとまるでエネルギーを奪われたように気力が失われてしまうように感じる。

ここで思い浮かぶのは、好きな人に自分が行ったつれない仕打ちを思い出して。ということなのか、いうことなのだけど…。

 

本当は

「好きな人に自分を合わせてしまったとき、なくした自分を思い出して」

ということなのかもしれない。

 

幻聴はどのような言葉遣いをするか

耳にラジオを埋め込まれたような機械的な幻聴が始まって、もう3年半になった。最初の1年は非常につらかったし、昨年から今年にかけての小発作みたいな時の幻聴もつらかった。

 

幻聴がつらいのは、所かまわず声がずっとしていることへのストレスが大きいが、もう一つ、自分とは思えない言葉遣いや話し言葉が、まるでいつも他人の話を聞かされて、自分でものが考えられなくなる感じがする、というストレスもある。

だから、今の私は、もしかしたら自分でものを考えておらず、半ば幻聴の「洗脳」に従って生きているかもしれないなあ、と思うことが多くなった。

 

さて、自分とは思えない言葉遣いの幻聴だけど、どうしてそうなってしまうのだろうか?まあ、陳腐なところでは他人に言われた言葉の反芻とか、霊に取りつかれているとか、私が初期に考えていたのは、夢の音声版だから、というのもあった。それのどれが正しいのかはわからない。

 

けれども、一つの傾向にちょっと気がついたかもしれない。

私の幻聴の中で、自分がふとあることについてこういう結論をだせばいいのかな?と思ったときに「殺人、殺人」と抗議してくる声があって、それがまたストレスになるのだけど、我ながらいいと思った考えがなぜそんな風になるのか?

その「殺人」という言葉について、今日イオンのテラスで空を見ながらランチしているときに、急にその連想が出てきたのよ。

 

その過程は今思い出せないのだけど、ドラえもんの漫画に出てくるオシシ仮面が敵につるされて「グエー」と叫んでいるシーンがあって、それに「殺人」と結びついた。

で、「なんで殺人がオシシ仮面の危機なの?」

と半ば笑いそうになったのだが、そのあとに、マンガではフニャコフニャオが「こんな終わらせ方じゃ、あとが困るじゃないか」と嘆くシーンが続いていたことを思い出し、「殺人」の意味は、このシーンのように、幻聴たちが困って嘆いているのではないか、という仮説に至ったのである。

 

幻聴が、仮に私の意識に対する補償と考えるとするなら、私が出した結論に対し抗議するときに、「そんなの困る」と言っても、たぶん私はそれほど注意を払わないだろう。

しかし、「殺人」という言葉には世間で使っているエモーションが大きく、聞こえてくればまず動揺する。

幻聴は、(あるいは幻覚などもそうかもしれないが)なにか強調したいことがあるために、

「より感情的に、より刺激的な」言葉を選んでいく傾向があるのではないかと思ったのである。

 

 

社会的な言葉遣いにおいて、差別用語などの感情的にもつれた連想をもつ言葉に対してはより軽くて明るい言葉に言い換えられることがよくあるが、幻聴はその逆でより重たい言葉に置き換えられることが多いのかもしれない。

 

 

あら、そういえば、筒井康隆差別用語の話で、片輪と言えばなんの言葉かわからないが、「○○の不自由な人」と言ってしまうと、それが明確になってしまう、ということをどこかに書いていた。

少なくとも、私の聞いている幻聴は、これと逆のベクトルで言葉を変換しているように感じる。

 

 

現状確認

いろんなことに手を出しているうちに、そもそもの目的を忘れてしまうことがあるかもしれない。

 

食事のことやスピリチュアルなことを始めた目的はなんであったか?

もともとは、自分の生活を立て直したい、という願いがあった。

今、その願いは叶っているだろうか?

 

生活を立て直す、という基準が自分の中で確立していないかもしれない。普通は生計を立てることができる、という意味合いだけど、生計中心に考えると以前と同じ思考回路に落ちいるために、うまくいかないことはなんとなくこの1~2年で悟った。

 

では、何を中心に考えると良いのだろう?

スピリチュアル界隈では好きなことやりたいこと、感情の伴うものをやりましょう、と提案しているものが多いような気がする。御多分に漏れず、自分もそうしようとしたけど、なんかやってるうちにいつの間にかそれをしなくてはならぬ、という半ば修行僧みたいな思考回路になることに気がついた。最初は面白くてもいつの間にか義務感になってしまう。たぶん、通常の社会ではこの義務感に囚われる期間を忍耐で乗り越えていろんなことをマスターしていくのだろう。それがなかなかできない自分に対し、実は自分を否定しているのかもしれないと、感じ始めた。

 

今、すごいへこんでいるのよね。

自分が自主的に取り組み始めた、と思ったものについて、少し他人に話をしたら、なんと、「続くかどうか」とあしらわれてしまったのである。しかも、なんかその人あまり機嫌がよくないように見えて、わたしはどうしたらよいのか途方にくれてしまった。

 

自分軸がない、ということがこういう時に露呈してしまう。

でも、今ここまで入力して、その程度で自分のやっていることを他人の言葉で左右されてしまう自分、というものに対し、どう折り合いをつけていくか、という命題が上がってきてるのかもしれない、と気がついた。

 

今、気がかりなのは、取り組み始めたことに対しての情熱が薄れてしまうことと、話した人との関係性についてである。

 

自分の克服していないところなんだろうな。何回でもこういう場面がめぐってくる。

 

そういえば、子供のころ、飽きっぽい私に、親が似たようなことをよく言ってたことを思いだしたなあ。このあたり、自分の認めていないなにかに絡んでいるのかどうか、ちょっと気にかけておいたほうがいいのかもしれない。

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